8月1日(金):今日の経験
夜勤明け。と言っても、朝までの夜勤ではなく、深夜に終了する勤務だった。通常の半ドンと言っていいか。時間は短いが、作業は多く、疲労が大きい。
帰宅して眠る。2時間だけ眠るはずが少々寝過ごす。寝る時間が確保できている時は2時間くらいで目が覚めるのに、2時間だけ寝ようとすると2時間以上寝てしまう。どうも上手くいかない。自分自身のことでありながら思い通りにいかないことが腹立たしい。
今日はOさんは早朝勤務だ。手伝いに行ってもよかったのだが、起床が遅くなったので見送ることにした。急げば少しぐらい手伝えたのだけれど、そこまでするのも、なんだかしんどくなってきた。
もう一度読みたい本があるので、それに着手する。萩野恒一著『現象学と精神科学』だ。急がず、毎日1章ずつ読んでいこうなどと思っていたのに、3章まで読み進めてしまう。ゆっくり行きたいと思うのだが、これもまた意のままにならない。
部屋を整理していると、ずいぶん昔に読んだダニエル・キイスの『アルジャーノンに花束を』を見つけてしまった。そうだった、いつか読み直したい本の一冊だった。未練を残すくらいなら着手してまえ。そう思ったのが運の尽き、こうして本日2冊の本に着手してしまう。両方とも読み終えることができるだろうか。
今日から8月。なんとかブログだけでも書いていこう。とりとめのない内容であっても、僕にとっては意味がある。読む人にとっては無意味であろうと構うことはない。僕は僕自身のために書いて残しておこう。
今月もまた値上げラッシュがあるそうだ。1000品目以上で値上げが決定しているという。生活は厳しくなる一方だ。食費が値上がりする分、食べる量を僕は減らしている。そんなに腹いっぱいにならなくても平気だし、美味しいものにも興味が薄れている。そこそこ腹が膨れればいいし、味や好みなんかのこだわりも薄くなっているのだから、量を減らしても苦痛に感じない。
電気代も気になる。エアコンだけは譲らない。この暑さではエアコンは不可欠だ。エアコンで電気を使用する分、その他の電気使用を控えている。テレビ並びにDVDも今は見ない。音楽も聴かない。パソコンも使用する時間を決めて、最小限にする。照明関係も昼間はあまり灯さない。昼間であればトイレでも照明をつけずに用を足すこともある。その他、節電できるところは節電する。
生きることに苦労は絶えないものだ。
物価は値上がりしても、賃金は上昇しない。生活苦が増える一方である。日本人は貧困である。そこそこ裕福な日本人でも、外国人からすればそうでもないのだ。30年間経済成長しなかった唯一の「先進国」が日本だ。この先もこれが続くのだろう。
今日から国会が開かれるそうで、新人議員たちが初登庁したとニュースで見た。いろんな目標を掲げ、スローガンが謳われ、マニフェストが述べられたけれど、僕はなんら期待しない。新しい日本を作るなどと言ったとしても、それが実現するのは何十年も先のことであるかもしれない。少なくとも、僕の生きている間には何も変わらないのではないかと思っている。
しかし、今日読んだ本にビーベスの言葉があった。「貧しい者とは、金のないものだけでなく、体力、健康、精神と判断のない者すべてを指す」という。まさにその通りだ。僕はそこに「気力」なども付け加えたいところである。金のない人よりも、精神のない人の方がより貧困だと僕は思う。少なくとも、僕はそういう貧困からは抜け出ようとしている。
今日もまた各地で40度近い猛暑日となったそうだ。暑さで人が死ぬ状況だ。僕が子供だった頃は30度を超えると今日は暑いから気をつけなさいなどと言われたものだ。今や30度は涼しいと感じる気温となっている。世界はだんだん過酷度を増してくる。今の子供、これから生まれてくる子供にとって、こんな世界はいい世界とは言えない。
経済環境だけでなく、自然環境も人間を苦しめる。
そういえば、朝のワイドショーか何かで見たな。ベンチャーを後押しする人たちのことをやっていたな。ベンチャーもけっこうである。高校生で起業している人なんかもおられるそうである。世界を舞台にして活躍できる人を育てたいなどということも語っていたな。それもけっこうであろう。
こうして、人生は「ビジネス化」されていくのだろうな。人生をビジネスにしていく人が増えていくのだろうな。そのような人生においては、勝つか負けるか、有益か無益か、損か得かといた基準しかなくなるのだろうな。人生にはもっと尊い基準だってあるはずなのに。こうして現代に生まれてきたというだけで、人生上の価値や生き方が方向付けられてしまうのだろうな。これから生まれてくる子たちは不幸だと思う。
いろんな生き方があり、価値観があるはずなのに、世界は無言の圧力をかけてくるかのようだ。知らず知らずのうちに、自分の人生が他者によって決定してしまっているかもしれない。それを人は自分で選択したなどと思い込んでいるだけかもしれない。
夜は夜勤。
出勤する。Oさんがいた。「今朝は来なかったね」と開口一番に言った。忙しかった?と僕が尋ねると「なんとかいけた」といった返事が返ってきた。そういう返事のときは、きっと困る場面がいくつかあったのだろうと僕は思った。
すると、Oさんが缶チューハイを僕にくれた。いつも手伝ってくれるから、そのお礼だということだ。ああ、気を遣わしてしまったな。悪いことをしたな。
Oさんを手伝うのは、Oさんが好きだというだけではなく、僕が精神病ではないことの証しにもなるからだった。僕がOさんを手伝う時、精神病者や人格障害者ではできないであろう二つのことを僕は実践しているのだ。ああ、そうだった。その目的のためにでも今日は手伝いに行っとけばよかった。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)