7月30日(水):切り替えて 

7月30日(水):切り替えて 

 

 今朝は起きてすぐにバイト先へ赴く。Oさんの手伝いをしようと思う。ついでにOさんにも話したいことがあった。 

 この手伝いは無償奉仕だけど、何かしてないと自分を保てないという気がしてならない。まあ、Oさんの手伝い自体は苦ではないが、今朝は少々忙しかった。 

 それに、昨晩やり残した仕事があるので、ついでにそれも終わらせておく。僕のやり残しを他の人がするという事態はできるだけ避けたいと思う。僕に課せられている仕事は僕で完結させたい。 

 そんなこんなで、Oさんに話したいことは話せずに終わった。 

 

 時刻は昼近くなっている。月末の外回りのいくつかを今日こなしておく。2,3か所巡って、昼食を取る。あまり外食はしたくないのだけれど、しょうがない。当初の予定では昼頃には帰宅できたはずなのであるが、手伝いが長引いたのだ。 

 それにしても暑い。後から知ったところでは、今日は各地で40度越えしたそうだ。外回りには不向きな日だ。外を歩いていると本当に暑い。2回ほどコンビニに入った。買い物半分、涼むのが半分といったところだ。そして、普段なら買わないアイスクリームなんてものも買って食してしまった。 

 

 帰宅してまずは小休止する。昨晩も2時間ほどしか眠れなかった。寝不足だと暑さが本当に堪える。フラッとくるのが、寝不足のせいなのか、暑さのせいなのか、よく分からなくなる。 

 小休止後、ケータイを開く。朝、家を出る前に開いたきり、まったく触らずだった。見ると電話が一件入っている。先日来られたクライアントさんからだ。なんだろうと思い、電話をかける。 

 用件は苦情だった。僕のカウンセリングがひどいということであった。不愉快な思いをしたのなら詫びる気持ちもあるのだが、いちいち苦情を言う神経も僕にはよく分からない。そもそも、彼と面接はしたけれど、カウンセリングなんて一度も成立したことはないのだ。あれだけ自己を閉ざしておいて、悪いことがあるとすべて僕のせいみたいに言われてもなあ、とも思うのだ。きっと周囲の人(要するに彼の妻であるが)も彼には悩まされてきたんだろうなあと思う。 

 でも、彼の苦情を聞いてると、彼に関することがいろいろ分かってくるのが面白い。彼の発した最初の一言目で、彼が話したそれぞれのエピソードが僕の中で整合されていく感じがした。それまでは断片的な仮説しか僕にはなかったのだけど、それが一つにつながっていく感じがした。すべてに見通しがつくようで、展望が開けるような体験だった。 

 あまり個人のことは書けないけれど、彼がああいう形で妻から離婚されたことも、その後の妻側の対応も、離婚後にあったという妻からの電話も、僕の中ですべてまとまっていった。もっと言えば、彼らに子供がないことも、妻がお金の管理をしていたこともそうである。義兄の言葉も、妻が彼に対して言っていた言葉も、すべてに意味があり、ゲシュタルトを構成しているのだ。 

 上手く行かない夫婦では双方に問題があるもので、彼の方でも「あれ」があるのではないかと僕は疑っていたが、やはりあった。ただ、それは「あれ」ではなく「それ」だった。体験様式は「それ」系のものだと思う。もしくは「あれ」と「それ」の混合かもしれないけれど。「それ」がいつ始まり、どう進展しているのかは不明だが、「それ」は彼の転職にも関係しているかもしれないし、その後の大学や現在の職場で彼が体験している「厳しさ」にも関係しているだろうと思う。 

 彼が面接中に示した態度が僕には非常に気になっていた。それが一過性のもの、つまり状況反応的なものなのか、それとも彼のパーソナリティに基づくものであるのか、僕にはその決め手がなかった。できるだけ前者の可能性を取ろうと思っていた。今では後者の可能性が高いと考えており、それは彼の対人スタイルを形成していると考えている。 

 僕はこの人が奥さんから離婚されたのがよく分かる気がする。まあ、他人のことなのでとやかく言うのは控えよう。この人とのカウンセリングはもうないだろうし、もし求めて来ても僕の方が断るつもりでいる。僕の中ではレアなケースになるかと思っていたけれど、これまでに何組も見てきた夫婦と変わるところはなく、「夫が○○」のパターンだ。(「○○」部分には「それ」系の言葉が入る)。 

 ところで、他者経験には「苦情」がつきものである。苦情の発生しない人間関係なんて存在しないとさえ僕は思うのである。カウンセリングや心理療法なんて営みも、それほど快適なものではないのである。不愉快なことや不満なことに直面するものである。そして、不愉快な体験をしている時とか、不満な状態にある時に、その人自身、あるいはその人の「問題」とかその本質が露わになるのだ。 

 皮肉なことである。面接中は自分を開示することのなかった彼であるが、苦情を言うやたちまち彼が露呈してしまうのだから。自分を隠したいなら苦情なぞ言わない方がいいってものだ。彼の最初の一言目で僕の中で、確かに仮説の域は出ないものの、すべてがまとまっていった。その一言目を面接中に言えばよかったのに。 

 

 もう一つ、彼のことで気になっていたことの一つに、離婚後の彼の「荒れ」ようがある。どうしてあそこまで荒れたのだろうと、僕は今でも疑問である。 

 それに関して、僕は「感情の逆襲」(と僕は呼んでいる)仮説を採っていた。これは普段から感情を切り離すことで感情に適応してきたという人が、感情を掻き立てられるような体験をすると途端に感情に支配されてしまい、その感情をどうすることもできず、感情のままに動いてしまうといった現象を指している。あたかも普段から切り離していた感情が当人に逆襲するかのように、感情が個人を襲うのである。 

 もう一つ、彼の対象関係が「自己―対象」関係であった可能性もある。この場合、対象(妻)との別離は、対象を喪失するだけでなく、自己をも喪失することにつながる。それは自己の「破滅」のようなものとして体験される。それから対象を取り戻そうとする行為が主体に見られるのであるが、それは自己の修復が目指されているのである。従って、それは対象愛ではなく、自己愛の文脈に属する。だから、本当に愛した人(対象愛)では別れを受け入れることができるわけである。その場合、自己の喪失も自己の破滅体験も伴わないからであり、悲哀はそのまま悲哀として体験され、抵抗なく喪の作業に入っていくことになる。この「自己―対象」関係の仮説はできる限り採用したくないものである。これを採る場合、特徴的なエピソード(例えば、対人関係でのトラブルや失敗や挫折の体験など)が見られなければならないし、加えて、こういう人に特徴的な転移が形成されることになると思う。彼には今のところそれらの目立った特徴は見られなかったのだけれど、今では可能性としてあり得ると信じるようになった。 

 しかし、まあ、どうでもいいか。こんなことをボヤいている僕自身が情けなく思えてくる。 

 

 さて、今晩も夜勤を控えている。「切り替え」をしていかなくては。自分自身を仕切り直して、切り替えていく。それができないと現代では生きていけないと僕は思う。今日も朝から自分を切り替えてやってきた。不愉快な体験に囚われ続ける人はそうしても構わないが、僕はそのような生を欲しない。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

関連記事

PAGE TOP