7月11日:唯我独断的読書評~『淋しい場所』(3) 

7月11日(金):唯我独断的読書評~『淋しい場所』(3) 

 

 ラストの6話を読んでいこう。

 

13「もうひとりの子供」(The Extra Child) 

 ハンニバル・コースコットは伯父が所有する一枚の絵を前に警部に説明する。6人の子供が遊んでいる無邪気な絵だが、それは伯父の子供時代の思い出、伯父が唯一愛したイブリンとの思い出の一枚だった。この絵は伯父が終生大事にしていたはずななのに、どうして伯父はこの絵を残して姿を消したのだろう。 

 冒頭で謎が提示されて、ジェーソン伯父の物語が始まる。成功した実業家だったが、引退してからは閉じこもり、この絵を前にして回顧に耽る日々を送っていた。かつてのイブリン、その後他の男と結婚してしまったイブリンの死を彼は知る。その日から、その絵に7人目の子供が現れ始めた。50年間、その絵にもうひとりの子供などいなかったはずなのに。 

 幻想的だが切ない一篇だ。伯父は実業界で名を成した人物であるが、成功するために切り捨ててきたものがあるのだ。若い頃に彼が切り捨てたものが今になって彼を捉え始めたかのようである。それは中年期から老年期にかけての年齢層に現れる危機でもある。 

 作中、ジェーソン伯父の友人マシューズ医師の言葉がすべてを語っている。「人間の行為ですっかり片のつくことなど、ある意味ではありはしない。かならずその人間と彼の世界に跡を残すものさ。イーブリンと6人の子供たちの、愛と恋と理想の世界、君が人生を過ごした実業界からは隔絶された、子供の頃の世界なんだ」 

 

14「森の空地」(The Place in the Woods) 

 かつて子供時代を過ごした田舎には森があった。森の空き地は私と姉と従兄との遊び場でもあった。ある日、姉が森の空き地に何かがいると言う。3人で確かめに行くや、そこには確かに恐ろしい何かがいるのだ。僕たちは鶏を生贄に捧げ、もう一度そこへ赴くことにするが。 

 一話目の「淋しい場所」と同系統の作品だ。子供には恐ろしい場所があるものだと思う。そこには何かが潜んでいるのだ。一話目と同じようなテーマだが、ここでは子供の「宗教性」といった傾向が加味されている。子供には恐ろしいものが多くあるので、まじないや呪術めいたことにすがりつくわけであり、本作ではそういう心情も描かれている。僕はとても共感するところが多かった。 

 

15「フォークナー氏のハロウィーン」(Hallow’en For Mr. Faulkner) 

 系図学の専門家の報告書を受け取るためにロンドンを歩くガイ・フォークナー氏。深い霧に囲まれて彼は道に迷う。待っていればだれかに出くわすだろうと腹を決めたフォークナー。やがて一人の男が歩いてくる。男はただついてこいとだけ言う。彼は言われるままについていくが、やがて一軒の家に入る。そこではハロウィンの仮装に身を包んだ男たちが集まっていた。彼らは議事堂を爆破して、国王を暗殺する計画を練っていたのだ。そして、導火線に火をつける役目をガイが負ってしまうことに。 

 20世紀の人間が17世紀にタイムスリップしたという話。こう書くとなんとも味気ない気もするが、家系の不思議な因縁、歴史上の謎とが絡んで、ミステリ色の濃い作品であるように僕は感じた。 

 

16「幽霊屋敷」(House-with Ghost) 

 エリス・トラヴァースは新聞で恰好の広告を見つけた。幽霊付きの別荘の広告だった。妻マージョリーも気に入り、エリスはさっそく不動産屋へ駆け込み、階段に現れる幽霊付き別荘を借りる。別荘に入る二人。引っ越し祝いに乾杯したところ、マージョリーがいつものめまいを起こし、階段から落下して死亡してしまう。エリスは満足する。自分が手をかけなくても妻の方から落ちてくれたのだから。その時、この別荘に住み着いている幽霊がエリスの前に現れて。 

 ロバート・ブロックあたりが書きそうな皮肉なオチがある。そもそも幽霊に契約でお金を支払っても、幽霊が買い物できるわけでもないだろうに。やはり、幽霊は家に憑りついてもらって、個人に憑りついてもらうのは勘弁してほしいところではないだろうか。エリスにとっては非常にイヤな結末だな。 

 

17「図書館の殺人鬼」(The Slayers and the Slain) 

 図書館にて働く私はダーウィン・ヴェスパーに閉館後の閲覧許可を与えるべきではなかったのだ。夜の書庫に何が潜んでいるのか私にはわかっていたからだ。かつて、学友のケン・ハーリーとでそれを体験したからだ。そこには人類の記録がすべて残されている。戦争、革命、虐殺、など人間の経験するあらゆる不幸と悲劇が残されている。連続殺人者やその被害者たちも、その記録の中で生き続け、復活する日を待ち望んでいる。 

 作中のケンの言葉を引用しよう。「言葉ってのは生き物さ、思考ってやつも生き物なんだぜ! それを否定できるかい? あそこの恐怖と死の記録の山を見てみろよ!」 

 僕は図書館とか古書店が好きである。新刊だけを扱っている書店とは違う魅力がある。そこには人間に関するさまざまな記録があり、思想がある。昔のことになった出来事や、忘れ去られたような思想さえある。文字に記されるということは、それを永遠化することでもある。そう考えると、歴史上の犯罪者たちは記録の中で生きていると言えるかもしれない。でも、そいつらが本当に誌面から出てきて現実に人を殺すなんてのは、ファンタジーの中だけにしてもらいたい。 

 

18「黒い髪の少年」(The Dark Boy) 

 田舎の学区に赴任してきたティム夫人。前任のメイソン先生の後任として生徒たちの前に立つティム夫人であるが、生徒は17人いたはずなのに、思い出せるのは16人だった。黒い髪の少年がいたはずだけど。それを聞くや学校長のアピゲイル姉妹は不吉な予感に襲われる。ティム夫人はお構いなしに夜中に現れる黒髪の少年に授業したりする。やがて彼女はこの少年の正体を知っていく。 

 黒髪の少年は学校で梯子から落ちて亡くなったジョエルだった。父親ロブはジョエルの幽霊を恐れている。ティム夫人も真相を知り、黒髪の少年なんて存在しないのだと自分に言い聞かせる。それでも夜になると幽霊のジョエルが学校に来る。ここでティム夫人がジョエルを拒絶しないのが感動的である。 

 この幽霊は淋しいだけで、怨恨を抱いているわけではないので、人に危害を加えたりすることもない。怖がられるのは、それが見える人と見えない人とがいるためである。 

 見えないものが見えるというだけで偏見の目が向けられてしまうが、それで幽霊を拒否すればするほど幽霊の存在が気になるようになり、幽霊の方も自ら姿を現してくる。恐れなければ幽霊の存在は気にならなくなるという。逃げるのではなく直面することだ、ということか。このことは案外「心の病」でも同じことだと思う。 

 

 以上で収録の18話を読み終えたことになる。 

 今日の6話では、ノスタルジックな13もいいし、ロバート・ブロック調の16などが印象に残っている。 

 18の作品はどれも小粒であるが、印象深い小品揃いである。ホラー系の作品だとしても、オドロオドロしさとか、ドギツさとか残酷さとかはなく、オーソドックスな幽霊譚であったり、子供時代に経験した恐怖心の描写であったりする。どこか心情に訴えてくるものがある。 

 僕の唯我独断的読書評は5つ星だ。 

 

<テキスト> 

『淋しい場所』(Lonesome Place)オーガスト・ダーレス(1962年) 

 森広雅子 訳 

 国書刊行会  アーカムハウス叢書  

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

関連記事

PAGE TOP