<T026-25>筆のすさび(11):インターネットの世界(1)
僕もこうしてホームページを持っているし、ブログも書く。ランディングページは今は中止しているけれど、再開すれば一つ増えることになる。基本的に僕がネットに関わるのはそれだけだ。このHPもブログも僕の方から発信するだけの一方通行だ。ネットで人と交流しようという意志はない。フォロワーも要らないし、閲覧者の数なんかも気にしていない。
二つの世界がある。こう仮定しよう。一つは現実の世界である。もう一つはインターネットの世界である。両者は完全に個別ではなく、相互浸透的である。従って、この二つの世界は並行関係にあり、パラレルワールドのようなものである。
二つの世界があるのなら、二つの世界の法律が必要である。現実の世界では法整備がなされているがインターネットの世界ではそれが大きく遅れている。いまだに利用者のモラルに頼っているというありさまではないだろうか。
法整備が遅れるのは、インターネットの世界がそれだけ急速であるからである。次々に新しい何かが開発される。ツイッター、フェイスブック、インスタグラム、クラブハウスなど、僕にはどれがどうなのかサッパリである。新しい何かが開発され、人々はそれを利用する。法整備が整うよりも先に利用されていくのである。
同じく、二つの世界があるのなら、人は両方の世界に適応することが求められる。現実の世界では適応できている人でもネットの世界では不適応極まりないという人もあるだろうし、その逆もあるだろう。また両方の世界で適応できている人もあれば、両方の世界で不適応を起こしている人もあるだろう。
だからというか、ネットの世界では英雄であっても、現実の世界では迷惑行為者であるという人も生まれるのである。迷惑ユーチューバーなどはそうであると僕は思っている。
いずれにしても、二つの世界で生きるということは並大抵のことではないと僕は思っている。両者が浸透的であるとしても、双方で違いもある。一方の世界で通用することが他方の世界では通用しないなんてこともザラにあるだろう。あっちの世界ではこういうルール、こっちの世界ではこういうルールという具合に分けて行動しなければならなくなる。
両方の世界で生きるのは難しい。だから僕は一つに限定している。僕は現実の世界に生きることを選ぶ。インターネットを活用することはあっても、そちらの世界に僕は存在しない。これが今の僕の結論である。
僕にはインターネットの世界が魅力的には見えない。現実の世界の方が生きる価値があると感じている。ネット上で有名になったところで何になるのか、とさえ思う。
これから僕の思うところのものを綴っていこう。ネットの世界がどういうものであるが、少なくとも僕にとってどういう世界に見えているかということを綴ろう。内容的には散漫になるかもしれないけれど、思うままに筆を進めてみることにする。
僕たちは、というか現代人は、二つの世界に生きている。現実の世界とインターネットの世界とである。この仮定が根底にある。その上で僕の考えを綴ろう。
現実の世界には「死」がある。ネットの世界ではそれがない。ここがまず大きな違いである。ネットの世界では、個人が亡くなっても、生者に対するのと同じように言葉が浴びせかけられる。現実の世界では故人に対して言葉を慎むことがあっても、ネットの世界ではそうではないようで、個人が亡くなっても尚、生前と変わらない言葉を浴びせかけられ続ける。
ネットの世界では、死が尊重されないのではなく、死という観念そのものが存在しないのだ。
死が存在しないだけでなく、ネットの世界では「誕生」も存在しない。個人はある日いきなりネットの世界に「出てくる」のである。世界に出現するのである。
現実の世界では誕生は一回だけの経験である。ネットの世界では繰り返し出現することが可能である。名を変え、性格を変えて、別人として出現することが可能である。
死という観念が存在しないのと同様に、誕生とか出生といった観念もインターネットの世界には存在しない。
誕生や死の観念が存在しないということは、そこには時間の観念が存在しないということになる。無時間の世界なのだ。それ故、その世界には過去や未来が存在しない。切り取られた現在が現在のまま存続し続ける。
僕も経験する。10年前に書いた文章を読んで来てくれる人もある。10年前に作られたものでも、現在性を帯びたまま存続し続ける。ネットの世界では、10年前に書いたものも、昨日書いたものも、違いがないのである。
ある意味で、ネットの世界では個人の歴史はどうでもいいのである。歴史そのものが存在しないのである。そこにあるのは今現在である。切り取られた現在である。その切り取られた現在が、いつまでも不変のまま、現在であり続けるのだ。
時間や歴史が存在せず、事物が不変のまま存続し続けるということは、そこには発展や成長、変化といった概念が生まれることがないのだ。いかなる可能性も実現しないのだ。いや、可能性そのものが生まれる世界ではないのだ。
従って、人生の途上で悪いことに手を染めてしまった人は、現実の世界では更生することができても、ネットの世界ではいつまでも悪人のまま存在し続けることになる。ネットの世界では、彼が反省して正しい人間になったとしても、彼は悪人として規定されてしまうのだ。
ネットの世界に適応するということは、そういう世界に生きることである。今のこの瞬間を平然と永遠にしてしまうことができてしまわなければならないのだ。今この瞬間の感情が永遠に存続してしまうことなのだ。主体の寿命よりもそれが現在性を帯びたまま生き続けるのである。
僕はネットの世界が恐ろしいと感じている。だからネットの世界で生きたいとは望まないのだ。僕は現実の世界の方を選ぶ。
僕もネット上で書き立てられた一人である。しかし、一たびネットの世界を捨ててしまうと、もはやネット上の書き込みなんて眼中になくなる。ネットの世界のことが気にならなくなる。ネットの世界は僕には要らない。
こうして書いて、HPに公開するということは、インターネットの世界に参与しているということになるかもしれない。矛盾を感じる人もあるかもしれない。しかし、僕がいくらこんな原稿を書いてネット上に公開しても、僕という人間はネット上には存在しない。だからネット上で僕は誰とも交流しないのだ。交流しようにも、そこに僕という人間が存在していないのだから、交流しようがないのだ。
しかし、それがネットの世界での存在様式であるかもしれない。ネットの世界とはその不在性を第一の特徴とすると僕は思う。
その世界に個人は存在するが、どこまでもその個人に迫ることができず、接点を持つことがないのだ。まるで蜃気楼のようである。どれだけその個人に近づこうとしても、その個人の不在性だけが現前化してくるのだ。
これをどう言っていいだろう。存在しつつ非存在の存在様式と言おうか。現実存在が成立しない世界である。
また、個人のアバターをつくる人もある。あのアバターとは個人の分身と考えていいのだろうか。もし、僕が僕のアバターを作ってネットの世界で生きるとしよう。おそらく、僕は僕のアバターを僕とは体験しないだろうと思う。自分であって自分ではない存在のように思うだろうと思う。もっと言えば、それは僕のゾンビである。本当にそうなのだ。アバターが僕にはゾンビのように見えている。そこで出会うのは、その人個人ではなく、その人のゾンビである。その人の存在がどこにも見出せないのだ。
僕がネットの世界を捨てるのは、僕が現実存在を選ぶからである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)