<T026-26>筆のすさび(12):インターネットの世界(2)
ネットの問題として、誹謗中傷の問題がある。今も社会問題となっている。
先日も専門家の先生がテレビで話していたな、誹謗中傷する人は自分が正しいと信じてやっていることだということを話されていた。要するに自己愛的攻撃とみなしておられるようであった。
なるほど、そういう例もあるだろう。しかし、その正しいとみなしている判断の根拠はどこにあるだろうか。誹謗中傷者は何を根拠にして自分が正しいという判断をしているのだろうか。誹謗中傷者は決してそこを明確にしないものだと僕は思っている。というのは、彼ら自身それを明確にできないからである。
おそらく感情的正当性に基づいているであろうと僕は仮定している。まず、感情的に気に入らないのだ。それが不愉快な感情を掻き立てるのだ。それはその人の問題なのであるが、心的に投射されて、不愉快な感情を掻き立てた相手が悪い存在になってしまうのだと思う。そうして、不愉快な感情をもたらす人物は悪であり、その悪を攻撃するのは正しい行為であるという論理展開になるのだろう。従って、それは自分の不愉快な感情の処理ということになるのだが、誹謗中傷者はそれを自分一人でできず、「敵」を通して行動化することになっているのだろう。
しかし、そんな精神分析的な解釈をしなくても、もっと簡単に説明できる。誹謗中傷者は単に退屈しているだけである、という解釈だ。彼ら自身が空虚なのである。外に目を向けていないと自分の空虚に直面してしまう。何でもいい、目に留まるものがあればそれでいいのである。目に留まったものに拘泥することで自分の空虚から目をそらすことができるというわけだ。
だから誹謗中傷者というのは、おそらくだけど、あっちでも誹謗し、こっちでも誹謗するのではないかと思う。誰かが成功しても誹謗し、失敗しても誹謗し、右だといって誹謗したかと思えば左だと言って誹謗する。そういうことをしているのではないかという気がするのである。
誹謗の対象はなんでもいいのである。常に外部に目を向け、意識をそこに釘付けさせているということがこの人にとっては重要なことなのだ。
現実の世界には死があり、終わりがある。僕がネットの人たちとは関わらないのは、人生があまりに短すぎるからである。今でもネットの世界では僕のことをとやかくいう人がいるのだろうか。もうどうでもよいのだ。その世界に僕は存在しないのだから。
僕が開業してからしばらくはインターネットを活用していなかった。最初のHPの時は何もできなかったし、何をどうしていいやらサッパリだった。
二代目のHPでは、僕は原稿を書いて、業者さんがあとのことをやってくれた。HPは更新されるけれど、僕自身はそれにノータッチだった。今でもこのシステムを僕は望む。
三代目が今のHPだ。本腰いれてインターネットを触ったのはこの時からだ。当時、繁盛させるためにはインターネット上で有名にならないといけないと考えていた。ブログも毎日書いて、こまめに公開したものだった。それはそれで効果もあったとは思う。
今はネット上で有名になろうとは思わない。現実の世界でも有名になりたいとは思わない。有名になった方が仕事も増え、可能性も増えるかもしれないんだけれど、有名になることは目指さない。名が売れたら売れたで面倒なことも多そうに思うのだ。
今はただ、日々自分の経験したことを書いて残しておき、それを公開しているだけだ。後ろ向きに前進するところが僕にはあって、このサイトもそうだ。これによって何かを開発しようとかいう意図はなく、ただ、自分がどれだけのことを人生において積み重ねてきたかを見たいのである。
こういう感覚はユダヤ教の時間感覚に近いようである。時間は流れすぎるものではなく、積み重なっていくものであるという感覚である。それは旧約聖書を見ればよく分かる。僕もそういう感覚を持っている。時間は流れるものではなく、積み重なっていくものである。開業して17年間の成果を書き残したいという気持ちもそうである。20周年を目指そうという感じではなく、17年間に何を達成し、何を身につけ、何を変えたかを振り返りたいのである。どれだけのものを積み重ねたかを回想したいのである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)