<T026-17>筆のすさび(3)~不条理を生きる
商売をやろうと思ったら客を見定めることが必要である。つまり、売っていい客と売ってはいけない客とを見極めなければならない。売ってはいけない客とは、その時は品物が売れて一時的に利益になるんだけれど、後々面倒なことをする客などである。
このことを僕はコンビニのバイトで学んだ。僕には開業前にアルバイトで食いつないでいた時期があって、その時にコンビニのバイトも入れたのだ。厄介な客はさらにまた厄介な客を呼び込んでくるものである。いい客だけを残していけば、いい客がさらにいい客を招き入れてくれるものである。僕はそう思う。
とは言え、開業から最初の数年は、とにかく経験と利益を上げなければならない必要からどんな人でも予約を取った。今から思うに、その半数近くは僕のカウンセリングを受けなくてもいいような人たちだった。
AC(アダルトチルドレン)のような人たちは今ではほとんど訪れない。サイトにあれやこれやと書いているからだ。また、ギャンブル依存はお断りしているので、来なくなった。ACは親を送り込んでくるというようなことをするし、ギャンブル依存はいつ料金を踏み倒されるかという心配が常にある。だから、こういう人たちにはカウンセリングを売りたくないのである。
僕の17年間の経験のうちで、憑依妄想の人が一人だけいた。今どき憑依なんてと思うのだけれど、案外、これは形を変えて存続しているものであるかもしれない。
憑依妄想というのは、何か困難な状況に置かれて苦しい時、その人はこれは何かに取りつかれたためであるとか、誰それの呪いのためであるなどということを信じ込んでしまうのである。そして、お祓いを受けたりすることもある。
ACはこれとよく似ている。構造的には同一であると僕は思っている。彼らも困難な状況に置かれてしまい、身動き取れなくなっている。苦しい経験をする。ただ、この苦しいことの原因は憑依にあるのではなく、親にあると信じ込んでしまうのである。僕から見るとかなり親にとりつかれているというようなAC者もある。そうなると憑依妄想とあまり違いが無いように見えてくる。
AC者の問題は、必ずしも親にあるとは言えない。まず、彼には彼自身がつまずいた状況がある。そこにあるのは不条理なのである。この不条理に彼は身動き取れなくなってしまうのだ。それだけでなく、この状態が彼をますます無力化し、無力な幼児期への退行を促してしまうのかもしれない。
不条理というのは、別の言葉で言えば矛盾とか、筋が通らないとか、理屈で割り切れないとか、そういった現象である。それなら不条理などと言わずに矛盾とでも言えばいいではないかと思われそうだけれど、一応、僕の中で区別している。矛盾は個人の作用が及ぶ範囲にあるものであり、不条理は個人の影響が遠く及ばないところにあるものである。そのように僕は区別している。直面している矛盾は、彼がそれに働きかけることもできれば、彼が内的にそれを処理することもできる。不条理はそれらさえ難しい状況であるということだ。
不条理と聞くと、カミュを思い浮かべる人もあるだろう。僕もそうだ。不条理な状況で人は異邦人として自分自身を生きるか、それとも反抗的人間として生きるか、自己の在り方が問われてしまうのだ。
カミュの思想はチョットわかりにくいところがある。哲学者の論述のような明確さが欠けているように思う。それに、よく指摘されることなのだが、カミュの論述には思想の飛躍が随所にあるとのことである。カミュの思想には触れたものの、僕がどこまでそれを理解しているかは自分でも確かではない。
世の中には不条理が数多く存在するものだ。それに直面するたびに僕たちは自分の態度を決定していかなければならない。異邦人のようになるか、あるいはカフカの主人公たちのように個を喪失して生きるか、あるいは反抗するか。僕は反抗を選ぶ。ただし、正しく反抗しなければならない。いつかそういうことも書こう。
でも、一つだけ述べておこう。この反抗は僕自身に対してなされるものだ。もし、状況に不条理性がないならば、僕はその状況に違和を覚えず、その状況に馴染んでいるだろう。つまり、そこでは状況と僕は融合していることになる。不条理はその融合に亀裂をもたらす。不条理は僕を世界から切り離し、僕は紐帯を失う。それは個の喪失の体験となる。僕の反抗は個の回復のためになされるものである。状況から切り離されたからこそ、僕は僕の個をしっかりと固めなければならなくなるのだ。
さて、僕が開業初期の頃に経験した憑依妄想を持つ人のことを述べておこう。この人は年配の女性だった。20年近く前に関わった人の霊が今でも彼女を苦しめているそうだ。ちなみに、その人物はもう亡くなっていたのだったか、あるいは衰弱しているような状態だったかどちらかだったな。亡くなっても尚呪いをかけるのか、あるいはそこまで弱っているのにそれでも尚呪いをかけるのはなぜなのか、どうしてそういうことができるのか。彼女の言い分では、それだけの能力がその人物にはあるということらしい。
もし、その人物が彼女に呪いをかけているのであれば、どうしてそんなに回りくどいやり方をするのか、もっと直接的に彼女を苦しめたらよいではないか。僕は再び疑問を呈する。彼女の言い分では、その人物が彼女が苦しむのを見るためにそうしているのだということである。
しかし、その人物は彼女から離れて暮らしているのだから、彼は彼女が苦しんでいるところを目撃することができないではないか。でも、それにも彼女には言い分があって、その人物は千里眼のような目で彼女を見ているという。
なるほど、あらゆることに理屈が通っている。彼女の妄想はどんな反論をも受け付けないのだ。何か疑問点を提示しても、その妄想に従った解釈で返してくる。
この女性をどのように援助すべきか、ずいぶん悩んだものだった。時間が経過するほどこの妄想がひどくなる。テレビや新聞の紙面に呪いの言葉を彼女は見る。四六時中、その人物の呪いがかけられているということである。
僕は彼女に反論した。もし、その人物がそれだけすごい力を持っているのであれば、どうして四六時中彼女に呪いをかけなければならないのだろう、強力な呪いを一度かければ済む話ではないかと僕は問う。相手が時間をかけてじわじわと自分を苦しめるためだ、と彼女は例の妄想で返答する。
僕はそれにさらに反論していく。そうではない。四六時中小さな呪いしかかけることができないのであれば、その人物は本当は大した能力を持っていないのだ。本当に能力のある人間なら、一度だけ、一生かかっても解けないような呪いをかけることができるはずだ。小さな呪いをチマチマかけ続けるなんて、本当にその人物が能力のある人間かどうか疑わしい。僕は彼女の妄想内容に対決した。
そして、僕は禁忌を敢えてした。彼女の妄想に加担したのである。その人物の霊がそんなやり方しかできないのは、彼女の守護霊の方が強いからである。その人物が決め手となるような呪いをかけることができないのは、彼女の守護霊が彼女を守っているからであり、そして、その人物がどんな呪いをかけようと大した効果が得られないのは、彼女の守護霊の方がより強いからなのだ。そのような解釈を僕はやってのけた。
彼女は半信半疑だったが、自分が守られているという観念を初めて抱いたようである。その人物の霊がどれだけ呪いをかけようと、あなたの守護霊があなたの知らないところでそいつと戦ってくれているのだから、あなたは安心して毎日を過ごしなさい、というようなことを僕は伝えた。
僕には霊が見えない。だからこんな話はほとんど口から出まかせなんだけれど、それでも彼女の表情がパーっと輝いたように僕には見えた。ものすごい安心感を体験されたのではないかと思う。その後、彼女のカウンセリングは終了したが、僕はそれで良かったと思っている。
こういう方法は、憑依妄想には通用しても、ACには通用しない。相手の霊と守護霊とが見えないところで戦ってくれているといった類の話が通じないのだ。彼らは親と本当に戦うからである。親と戦っても、彼が直面した不条理が改善されるわけでもないし、それで彼自身が成長するとも思えない。AC者は人生と自分自身を棄損し続ける。
いずれにしても、僕たちは不条理に直面するものである。生きているとそういう体験をしてしまのである。そこで僕たちに求められるのは、僕がどういう態度を採択するかということになるのではないかと思う。不条理に直面するたびに僕たちは自分自身に直面してしまうのだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)