<T026-16>筆のすさび(2)~カウンセリングのやるせなさ
開業した当初、僕が33歳の頃のことだけど、経験を積んで後継者も育成したいなどという大それた野望も当時は持っていた。今はまったくそれがない。むしろ、カウンセラーになりたいという人がいたら、止めときなさいと僕は忠告するだろう。カウンセリングとは本当にやるせない仕事である。生半可な覚悟でカウンセラーなんぞにはならない方がいい。
クライアントが継続してカウンセリングを受けていると、ある時、ふと、そのクライアントを魅力的だと感じる瞬間が僕にはある。老若男女を問わず、これまでも何回も会ってきたのに、ふと、その人に魅力を感じてしまうのである。
通常の人間関係ならここから関係が始まるのだ。魅力を感じる相手と交際ないしは関係形成がなされるものである。しかし、カウンセラーはそういうわけにはいかない。相手が魅力的に見え始めると、そろそろこの人ともお別れの時期が近づいてきているな、と覚悟しなければならない。
事実その通りである。その人が魅力的に見えるということは、その人の良さが現れているということなのである。それはその人の改善と言ってもいいことである。そろそろこの人は改善してきたなと僕にも伝わるわけである。相手が魅力的に見えるということは、その人が良くなってきたということの徴候である。
このように言うと、それは僕の主観的な思いに過ぎないのではないか、などとと指摘されるかもしれない。
ところが、僕の主観的な判断だけとも言えないのである。その人は他の人間関係においてもウケが良くなっていたりするのだ。周囲との人間関係が好転し始めているのである。クライアント当人は自分ではそういう意識を持っていないのが常であるけれど、その人の良さが現れているから周囲の人の良好な反応を引き出しているのである。その良好な反応がまたその人の良さを強化することになるから、その人間関係は良好なまま安定していくことになり、その人の良さや魅力がさらに増してくるのである。
クライアントが人間的に魅力が増してきたらお別れしなければならないというのは、なんとも寂しい現実である。実際、僕がその人から魅力を感じ始めてから、しばらく後にカウンセリングの終結をその人が申し出ることも多いのである。
相手に魅力を感じると、また会いたいという気持ちも生まれてしまう。しかし、カウンセラーはそこでキッチリと別れなければならない。因果な商売である。
そんなことを繰り返していると、何と言うのか、だんだん別れに強くなる。こちらにやり残したことがあろうと、未練や心残りがあろうと、別れる時はキッチリ別れなければならない。そういうことができるようになっていくのだ。その代わり、その人に対しての未練とか後悔というものは、一生僕の胸にしまっておかなければならない。それはそれで苦しいことである。
僕の心の中をパックリ開くと、未練とか後悔とか心残りとかがワンサカ出てくるのじゃないかとさえ思う。
確かに人と人とが出会うというのは奇跡的な出来事である。確率的に言えば、僕とこれを読んでいるあなたとが出会うことのない方が当然である。出会うことの方が特殊なことであると思う。
しかし、いくら出会うということが天文学的に低い確率であるということを認めたとしても、ロジャース派の人たちが言うようにそこに深い意味を見出すのは、少なくとももっと後のことだと僕は思っている。最初の出会いは、こう言ってよければ、ただ出会ったというだけに過ぎない経験である。その後のその人との経験がその出会いを意味づけ、貴重なものにしていくものだと思う。どんな人間関係でも運命的な出会いとか電撃的な出会いというようなものは生じなくて、後になってそのように意味づけられていくものではないかと、僕は個人的に、そう思うのだ。
人と人とが出会う確率は低いけれど、淡々とした出会いをすることも多いように僕は感じている。後からその出会いの意味が見いだされていくものだと思う。最初に出会った時からその出会いの意味が明確であるという出会いは、全くないとは言えないとしても、そういう経験をすることはほとんどないのではないかと僕は思っている。
そして、出会った以上、その人との別れがいつか訪れる。人間はその経験を回避することができない。人は出会いを受け入れる以上に、別れを受け入れなくてはならなくなる。それは人間の宿命みたいなものだ。
だから、別れるのが辛いから最初から出会うことを拒否しているような人もおられる。その気持ちも分からないことはないのだけれど、それはその宿命を回避したいということであり、それを引き受ける覚悟ができないでいるのだろうと思う。
そこには二つの方向性があるのではないかと思う。出会ったことを幸福に思うか、別れることを不幸に思うか、である。先述の宿命を回避したい人は別れを不幸に思うのであろう。出会いは、幸福の体験とはならず、不幸の前兆のような体験となってしまうのだろう。
その人と出会ったことに意味が見いだせて、また、その人と別れることにも意味が見いだせたら、幸福か不幸かなんて観念はすっ飛んでしまう。僕にとっての意味が見いだせるなら、出会いも別れも、僕を豊かにする体験であることに間違いないと、僕はそう感じている。
そうは言っても、未練や後悔や心残りが生まれるものだ。その人との関係において、僕自身に許せないことがあれば尚更そうである。「あんときああすりゃよかった」なんて後悔は、ああしなかった自分を許せないのだ。
先ほど、僕の心の中をパックリ開いたら未練や後悔や心残りがワンサカ出てくるだろうと言ったけれど、それだけ僕の中には自分が許せない事柄がたくさんあるということなのだ。僕の場合は多すぎる。これはこれで僕の問題である。でも、そういうものが全くないというのも問題である。
つまり、相手と真剣に関われば関わるほど、未練や後悔や心残りも生まれてしまうと僕は思うのだ。何の心残りも残さないというのであれば、本当にその人と関係を築いたのかどうか怪しいものである。極端な表現をすると、相手がどうでもいい人であれば、その人と別れても未練や心残りは生まれないのである。
いわゆるプレイボーイみたいな人の異性関係にはそういうのがある。一人と別れてもすぐ次の人と付き合い、以前の交際相手に未練も心残りもないのだ。僕が思うに、それは、相手は誰とでも交換可能であり、相手の独自性とか、かけがえなさとかは不問であり、自分がよければ相手はどうでもいいといった関係様式ではないだろうか。
プレイボーイの話はさておいて、人間関係で未練や後悔や心残りを生まないようにしたければ、相手と真剣に関わることを避ければよいのである。深く、あるいは真面目に相手と関係を築くことを避ければいいのである。表面的な関係で済ませても構わないのである。そうしたければそうしてよいのである。僕も他の人間関係ではそういうことをすることがある。ただ、クライアントに対してはそれをしないようにしてきたつもりである。
内容にまとまりのないまま綴ってきたな。とりとめもなく綴るというのがこのシリーズの主旨なので、これはこれで良しとしておこう。カウンセラーなんかになると、後悔や未練や心残りをワンサカ抱えたまま墓に入ることになるということだけは、カウンセラーなんぞを目指す人には覚悟してほしいものである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)