5月31日:一般化された「私」が個別の「私」であれば

5月31日(土):一般化された「私」が個別の「私」であれば 

 

 今日で5月が終わり、明日から6月だ。これに拘るのには訳がある。後で記そう。 

 

 昨晩から今朝にかけて夜勤だ。案の定、けっこうハードな内容だった。なんとかこなすものの、相方には負担となったかもしれない。まあ、勘弁してもらおう。 

 勤務終了。今日はOさんと会うことはないかと思っていたら、Oさんが来た。シフトの変更があったらしく、彼女は間違えて一時間早く来てしまったのだ。僕も過去にはそういうことがあった。急に変更になったりするから困るものだ。 

 Oさんと会えたのは嬉しい限りだが、あまり言葉をかけることなく終わる。なんとなく距離感を感じてしまう。彼女の方にではなく、僕の方に生まれている距離感ということだ。 

 

 勤務終了後は、駐車場で缶チューハイなぞを呑んでしまう。 

 OさんにはOさんの生活があり、人生があり、感情がある。僕の方でも同じだ。それらが交流することなく過ぎるかもしれない。それも仕方がないな。僕は僕だ。 

 そんなことを考えながら飲む。普段なら使わない「私は私」などという文言を言ってしまった(もちろん心の中で言ったという意味だ)ことに気づく。 

 

 「私は私」という時、最初の方の私は主体としての「私」ではない。分かりにくいから書き換えよう。「私(1)は私(2)である」と表記しよう。私(1)は主体としての私ではないと僕は考える。主体は私(1)を抽象した私であり、この文言の言外に存在している。従って、主体としての私が取り上げる私(1)は私(2)に属していると主体の私がみなしているという意味になる。僕はそういう意味としてこの文言を解釈している。 

 私(1)は主体としての私によって抽象化された私である。つまり、個別としての私という意味になる。その私(1)が私(2)に属するということは、私(2)が「一般」としての私という意味になってくる。 

 私によって個別化された私は、私によって一般化された私に属している、そのように私はみなしているということになる。何も特別な思想ではないし、特別な存在様式でもない。もっと言えば、なんら目新しいことも言っていない。 

 これが逆であったらいいのにと僕は思う。一般化された私が個別化された私であるということであればいいのにと思う。私にとって私の「一般」それ自体が私の「個別」であればいいと思う次第である。「私(2)は私(1)である」という意味であればいいのにと思うわけだ。 

 

 飲みながらそんなことを考えてる。案の定、悪酔いした。飲んでるときは難しい屁理屈など考えない方がいいってものだ。 

 

 さて、帰宅するやバタンと寝てしまう。4時間くらい寝ただろうか。もう少し睡眠時間を取りたいところだが、目が覚めてしまう。今晩の夜勤は昨夜以上にハードになりそうなので、十分に睡眠を取っておきたかった。この後で仮眠を取るかもしれない。 

 とりあえず、目が覚めてしまった。だから、起きてこのブログを書いている次第である。ちなみに、前日分と立て続けに書いている。 

 

 さて、明日から6月である。やたらとこれを言うのは、僕の中で理由がある。 

 コロナ禍で僕もダメージを受けた。カウンセリングセンターも廃業を考えたのだけれど、来てくれるクライアントさんもあるし、僕自身、廃業してどうしようかという問題もあった。そこで4年計画を立てた。 

 アルバイトでもなんでもして、最初の2年で負債を減らすこと。少なくとも遅れているものをすべて失くすこと。次の2年でカウンセリングセンターを軌道に再び乗せること。そういう計画である。その4年計画の開始が6月だったのである。 

 今、あれから丸3年が過ぎたことになる。最初の2年は概ね目標達成している。後の2年が問題だ。すでに1年が過ぎているけれど、あまり代わり映えしない状況だ。でも、あと1年でできる限りのことはやっていこうと思う。 

 あと1年で軌道に乗せることができなかったら、それこそ廃業を考えてもいいかなと思う。これだけやって軌道に乗らないということは、僕がもう役立たずになっているということなんだから、続けても意味がなさそうに思う。 

 役立たずになっているのは、僕自身が時代遅れになっているからだ。新しいものに心を閉ざしているからである。実際、最近は初期の精神科医たちに興味があって、19世紀の精神医学を勉強していたりする。新しい理論についていこうともしないのだから時代に取り残されるのも当然と言えば当然か。 

 それに、現代はついていくだけの価値がある時代とも思っていないのだから、尚更、タチが悪いな。現代は、心や精神を、さらには自己を機械化する時代だと僕は思っている。そんな時代に適応なんて僕にはとてもできないことだ。 

 結局、今の状況が一年後も続いているのだろううな。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

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