<テーマ187>ラポール・転移・対象恒常性(2)
(187―1)心の働き
(187―2)心が働くことと働かないこと
(187―3)活動の連鎖
(187―4)対象とイメージ像の区別
(187―5)私の考える「ラポール」
(187―1)心の働き
前項でラポールに関して述べてきましたが、いささか奇異な感じを受けたという方もおられるかもしれません。私も少し先走りし過ぎたように自分で感じています。本項では、論を進める前に、前項に関することでいくつか補足的に述べていこうと予定しています。
まず、対象に対して心の中にて形成されているイメージを付与するという点をもう一度取り上げることにします。
私たちは目の前にある物を見ます。それは人であれ、人以外の物質であれ、視覚があれば見ることができます。そして、対象を知覚して、それが何であるかを認識します。この段階ですでに対象が心の領域に入っているのですが、心理的な関与よりも生理的な関与の方がまだ多い段階であります。
続いて、目の前の対象に対して、何らかの感情が湧いてきたり、連想が働いたり、イメージが浮かんできたり、象徴的な意味を感じ取ったりします。もし、そういうことが起きているとすれば、その人の心は知覚すること以上の作業をしていると言えそうです。事実、感情や思考が働く、連想する、イメージ化する、象徴化するなどという現象は純粋な心の働きであると私は考えています。
こうした心の働きは、対象をただ知覚した以上の体験を個人にもたらすことになります。従って、心が働くほど体験の幅が広がるということも言えるのです。それだけにとどまらず、心の働きは個人の適応を助けてもくれるのです。
前項で取り上げたのは後者に関することでした。クライアントは初対面のカウンセラーと対面しています。クライアントにしてみれば、対象であるカウンセラーはどんな人なのか分からないという場面に遇しています。相手が不明瞭であること、不明瞭な相手に関わるということは、不安を高めることもあり、当人が苦しい思いをすることもあります。心はこうした苦痛を軽減するために働き始めるでしょう。当人を防衛するのは心の働きの一つであるからです。
その時に心の行う対処の一つが馴染みのあるイメージ像を対象に付与することであると前項では述べたのでした。こういう過程が生じることでクライアントはその場への対処をより容易にしていくのです。
(187―2)心が働くことと働かないこと
もし、クライアントにこういう過程、心の働きがまったく生じないとすれば、その人にとってカウンセリングはただ辛いだけの経験になってしまうと私は思うのです。だから、私はクライアントにそういう心の働きが生じてほしいと願いますし、その働きをなんとかして促進したいと思うのです。
この心の働きは、相手が不明瞭であればあるほど、あるいは相手が何もしなければしないほど、促進されることが多いと私は理解しています。つまり、カウンセラーから与えられる影響が少なければ少ないほど、クライアントの心の中でその過程が促進されるということであります。
そうは言っても、あまりにも不明瞭すぎたり、何もしなさすぎたりすれば、クライアントの不安や緊張感、恐怖感が高まり、それらが却って心の働きを妨げてしまうかもしれないので、この辺りはとても神経を使う部分であるのです。
ここで思い出されてくるのは、「カウンセラーは何もしない」という一部のクライアントたちのカウンセラー批判であります。この批判はさまざまな状況で生じ得るだろうし、いくつもの意味があるとは思います。一応、言葉通りに受け取って考えてみましょう。
カウンセラーは確かに何もしなかったかもしれません。クライアントの心の働き、連想やイメージが活性化するためには、カウンセラーはあまり影響を与えない方がいいと、私はそう思うのですが、しかしながら彼らはそこに不服を申し立てているのです。
むしろ、私は彼らに尋ねたいくらいであります。何もしてくれないカウンセラーを目の前にしていて、あなたの心はどんな風に働きましたか、と。恐らく、その人たちはその場面をとても苦痛に満ちたものとして体験していたのだと思います。その苦痛な状況に対して、彼らの心は彼ら自身を守るように働かなかったでしょうか。もし、まったく心が適応的に働いてくれることもなく、ただ不安や恐れに圧倒されていただけだとすれば、何もしないカウンセラーの問題以上に、彼らのこの傾向を問題として取り上げなければならないと私は思うのです。もし、あなたにそういう経験があるとすれば、カウンセラー批判をする前に、その時、どうしてあなたの心はあなたを守るように働いてくれなかったのかを考えてみることを推奨します。
(187―3)活動の連鎖
さて、カウンセリング場面において肝心なことは、クライアントの心がそうして活動を開始して、働き始めるということであります。少なくとも初期においては、カウンセラーはクライアントに与える影響を極力小さくして、それによってクライアントの心にそうした動きを促そうとします。カウンセラーがしていることはそういうことなのだと私は理解しています。
そして、心が一つ働き始めます。わずかでも動き始めます。その動きは次の動きをもたらすことになります。私がN先生に私に耳を傾けてくれるイメージ像を付与すると、もっとN先生に話をしたくなってきたように、一つの動きによって次の動きが誘発されるのです。
少し先取りしてしまいますが、こうして心の動きが次の動きを誘発して、それがさらに次の動きを誘発していくということが繰り返されていきます。それによって、その人の心は活動と活動領域を広げていくことになるのです。
心の活動が広がると、クライアントに限らず私たちの誰もがそうだと私は考えているのですが、よりイメージや連想が広がったり、体験や興味、感情の幅が広がったりするのです。こうして、クライアントの心の活動幅が広がるほど、クライアントは連想をよくするようになり、いろんなことを思い出したり、あるいはいろんな感情を体験、表現するようになっていくのです。
重要なことは、心の動きの最初の動きが現れるということなのです。最初の動きが始まれば、次の展開へと開かれていくのです。余談ですが、私の考える「いいカウンセラー」というのは、クライアントにこういう過程を速やかにもたらし、促進できる人だと考えています。クライアントをゴールに導くのではなく、クライアントにスタートを切らせるような臨床家を私は尊敬するのです。
(187―4)対象とイメージ像との区別
次に強調しておきたいことは、対象に心的イメージを投影すると言っても、それは無意識的に行われていることであって、当人には意識されていないということです。意識的に投影しているわけでもなければ、これを投影しようというふうに意図的に選択しているわけでもないのです。むしろ、クライアントは、自分でも分からないうちに、自然にこうした過程に入っていくものなのです。
この投影が無意識的であり、自然であるということは、次のような現象をもたらします。クライアントは臨床家と対面すると同時に、自分の中のイメージとも自然に対面しているということになります。臨床家と関わりを結ぶと同時に自分の中にある何かとも関わりを結んでいるのです。もう少し言えば、本人も知らず知らずのうちに自分の中のイメージ像を通して臨床家と対峙しているということであります。
私の体験したところでは、自分に対して少し意識的になれば、あるいは意識野が広がっていけば、気づいていくのです。自分が相手と対面していながらイメージのようなものとも同時的に対面しているということを。そして、現実の相手とイメージを付与された相手とが別個の存在であるということも、徐々にではあれ、理解できるようになるのです。
この区別がつくようになるということはとても大切なことだと私は考えています。少し本題から逸れるかもしれませんが、これについて取り上げることにします。
例えば、私がN先生にある像を付与しているとします。このイメージ像をXとしておきましょう。このXは私に愛情と理解を示してくれる像であるかもしれないし、私を攻撃する悪者の像であるかもしれません。
もし、私の中でN先生とXとの区別がついていないなら、私はN先生から愛情と理解を引き出すような行動をとるかもしれませんし、直接的にN先生を攻撃してしまうかもしれません。きっとそうするでしょう。私はN先生を見ながら、同時にXを見ており、区別がついていないということは、N先生イコールXとなっているわけなのです。そのため、本来ならそのXに対しての行為であるはずのものを、私はN先生に対して行為してしまうでしょう。
言葉がきついかもしれませんが、「健全な心」はこうした混同をすることが少ないと私は考えています。健全な部分が多いほど、そういう混同は少なくなっていき、区別が認識されると私は理解しています。また、健全な部分が多いほど、N先生が実はXではなかったという事実に直面しても、その事実を受け入れていくことができるでしょう。その事実のために、憤ったり、傷ついたりといった体験をすることが少なくなるでしょう。
N先生とXとの区別が認識されていくと、私はこういう体験をするでしょう。N先生からもっと愛情と理解を引き出したいのだけれど、私はN先生に直接働きかけることはできないと。あるいは、N先生が憎くてたまらないけれど、N先生は私が攻撃していい人間ではないことが私にはわかっているといった体験であります。これは非常に苦しい体験となると思います。
しかしながら、愛情を求めたいけれど、それをしていい相手ではないことがわかることで、私は欲求不満を体験するかもしれないけれど、私は自分の愛情飢餓感に気づくことができる可能性が開かれるかもしれませんし、愛情要求感情をコントロールしていく可能性にも開かれていくかもしれません。同じように、相手を攻撃したい気持ちになっているけれど、相手が攻撃してもいい人間ではないということが分かっているからこそ、私は自分の攻撃欲求を直接的に表出しないことを学び、憎悪をコントロールしていく道が開かれていくのです。苦しい体験をするかもしれないけれど、そこから道が開けていくという可能性が常にあるものだと私は思うのです。
非常に不幸なことに(私は本当にそう思うのですが)、この区別がつけられないまま生きている人たちもおられるのです。この人たちは、自分の中にある像を通り越して、臨床家に直接的な愛情を求めてしまうし、直接的に攻撃してしまうのです。ネットの掲示板には、ご丁寧にもカウンセラーを攻撃するためだけのレスが立ち上げられたりしています。私はそれを見たことがありますし、書き込まれているものも読ませていただきました。彼らは本当に自分が怒りを感じている対象の方はまったく見えていなくて、その対象像を付与したカウンセラーを標的にしてしまっているように思われてなりませんでした。その対象を見てしまうことよりも、その像が付与されたカウンセラーを攻撃する方が安全だと感じられているのかもしれませんが、これをすることは健全への道を却って閉ざすものだと私は考えています。
同じように、一部の人たちは、臨床家に直接的な愛情満足を求め、現実に手に入れてしまいます。先述の攻撃も、ここでの愛も、破滅的な結果をもたらすことにしかならないのです。なぜなら、臨床家がその像と区別できた時に、一番傷つくのはクライアントの方だと私は思うからなのです。愛してはいけない人を巻き込んでしまったとか、憎むべきでない人を攻撃してしまったというような感情は、当人を深く傷つけてしまうのではないかと、私がそのように思うからであります。
(187―5)私の考える「ラポール」
ここでラポールということについて、私が考えるところのラポールについて簡単にまとめておきます。
クライアントがカウンセラーと対面していて、同時にクライアント自身の何かと対面していること、カウンセラーに話していると同時に自分自身の何かとも対話しているという状況、これがラポールであると私は考えています。
この時、馴染みのあるイメージ像を付与された臨床家は、クライアントにとっては、すごく馴染みのある対象になっており、近しい相手であるかのように体験されていたりします。臨床家は自分とは別個の存在でありながら、どこか自分の延長上の存在であるかのように経験することもあります。
臨床家に対する愛情は、クライアント自身の中にある何かとの愛情関係がそこで展開されることになり、同様に、臨床家に対する敵意はクライアントの中の対象との敵意関係が現実の臨床家との間で展開されることになります。
ラポール関係を通じて、クライアントは心の中に秘めている感情体験を現実の臨床家との関係において展開していくことができるのです。これは後に述べることになりますが、クライアントに心の中にあるものを扱っていくことを助けていくのです。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)