<T026-31>筆のすさび(17):AC者(1) 

 

 僕の言うAC(アダルトチルドレン)者というのは、自らACと自称する人、又はAC理論に大いに感化されている人を含めている。彼らは自分の親を「毒親」と見る。その一方で、自分が毒親だったのではないかと不安に駆られて来談される親もある。どうもAC理論というものは、それの正否は別としても、人をひどく不安にさせる理論であるように僕には思えている。 

 AC者に関しては、開業初期の頃から悩まされてきたけれど、17年経った現在でも頭を抱える問題である。 

 

 初期の頃には親を連れてくる子も多かった。いきなり親を連れてくるわけなんだけれど、こっちとしてはそんなこと聞いてないよとも言いたくなる。そして、親を交えて何をするのかと言えば、大抵の場合、親がどれだけひどい親であるかをカウンセラーの前で言うというだけのことである。 

 僕はAC者というのはとかく「援軍」を求めたがると信じているというか、半ばそう決めつけているので、今にして思えば、その人たちはカウンセラーを援軍として利用しようという意図だったのだろうと思う。 

 

 こんな例も2,3ある。子が予約を取るのだが、来談したのは親であるという例だ。予約した人と別人が来るので僕としてはビックリだ。 

 僕は思う。この人たちが社会で上手くやっていけないのは、彼らがそういうことをするからである。親の契約を一方的に子が結ぶのである。このAC者たちは、要するに、契約観念が乏しいのである。社会適応できないという人は、僕の見解では、10中8,9くらいで契約観念の乏しさを見るのであるが、彼らはACだから適応できないのではなく、契約観念が乏しいから上手く行かない、もしくは分からないことが多いということなのだと僕は考えている。 

 契約観念に関して、詳しくは別の機会に譲ることにして、簡単に述べておこう。契約観念を持つためには、ある程度の社会経験が必要であるのと同時に、しっかりと自他の区別がついていなければならないと思う。AC者はその両者に欠けている場合がけっこうある。 

 

 AC者が決まって言うことがある。AC理論が自分にピッタリ当てはまるという体験である。これ自体ちょっと考えられない体験であると僕は思う。理論は人間から抽象されたものであり、どの理論も人間の一部を扱っているのに過ぎない。だから一つの理論が自分にピッタリ当てはまるとすれば、その理論かその人かのどちらかが間違っているのだ。個人的には両方が間違っていると思っている。 

 彼らはそういうことを異口同音にして言うのであるが、では、AC理論に遭遇することによって、それ以前(彼がAC者となる前)に自分が抱えていた問いにどのようにその理論が答えているのかということになると、彼らはほとんど言わない。一つ確信していることは、まず、問いそのものが発せられることがなかったのではないかと思う。AC理論に遭遇して、言わば、答えを与えられてから問いを発見するという状況ができていたのではないかと思う。 

 問いや疑問がまったくなかったと、僕はそう信じているのだけれど、それはさすがに言い過ぎではないかと感じられたとすれば少し言い換えよう。彼らには苦しいことはあったけれど、そこから如何なる問いを立てたかが僕には分からない。かりに疑問や問いを立てたとしても、AC理論がそれに答えたように僕には見えないということである。 

 AC者が大きくつまずいてしまうのは不条理であると僕は確信している。なんらかの不条理な事態に直面して、お手上げ状態になってしまうのである。AC理論がその不条理に答えているとは僕には思えず、むしろさらなる不条理をAC者にもたらしているかもしれないとさえ思う。 

 先ほど契約観念という概念を出したけれど、この不条理の多くは、契約でそうなっているからという説明で十分に片が付くこともある。契約とか規則としてそうなっているということである。感情的には不愉快であるかもしれないけれど、契約観念を有している人にとっては、そういう契約なら契約を交わした自分もその責務を果たさなければならないと、そういうふうに自分を方向づけるのではないかと思う。 

 

 何にせよ、AC者というのは、それ以前からAC者というわけではなく、AC理論と遭遇することによってAC者になると僕は信じている。このことは僕の実体験でも分かっているのであるが、他の人の経験からもその信憑性が感じられるのである。 

 つまり、AC理論に何らかの形で遭遇するまでは、彼らはそのように考えていなかったということである。親は、いい親とは言えないかもしれないが、せいぜい困った親とか嫌いな親といった位置づけでしかなかったのである。少なくとも、自分の今のこの苦しい体験が親に原因があるなどとは考えていなかったのである。AC理論に取り込まれると、親は憎悪や復讐の対象になってしまうのである。親がAC者の心を占領してしまうのである。 

 ACというのはカルト教団のようなものだと僕は信じている。あなたの親はこういう親であるという決めつけを理論がするのである。その証拠は『毒になる親』などのバイブルを読めば見つかるわけである。そして、その親があなたの人生を狂わせたのだと結論付けるのである。信者はそれを鵜呑みにする。確かに思い当たる節があるとか、ピッタリ当てはまるとかいう体験がそれをもたらす。反省や懐疑を通して吸収されるのではなさそうである。 

 ある種の「洗脳」を見る思いが僕にはあるのだけれど、バリバリの極AC者を見ると本当にそんな感じを受けてしまう。親は絶対的な悪であり、親を矯正することあるいは親を倒すことが、その人の中で至上命令のようになってしまっているのである。それだけが人生の目的になってしまっていたりする。ハッキリ言って、狂信的なまでのAC者は僕には恐ろしい。 

 時に、こういう子を抱えた親が来談される。はっきりと伝えるか否かはその親を見て決めることにしているのだけれど、本心では僕はこう言いたいのである。あなたのお子さんはAC教団に入ってしまって、そこから抜け出すのは至難の業であるかもしれないので、あの子は自分の子ではなくなったという覚悟を、さらにはあの子はもともと生まなれなかった子であると思う覚悟をしなければなりません、と。 

 人がAC者になるのは速やかであるが、AC者が非AC者になる道のりは多難である。これは本当である。AC理論は速やかにその人に浸透していくのであるが、そこから抜け出すことは相当厳しいのである。AC理論でかりそめにでも「救済」の経験をしている場合では尚更そうである。 

 

(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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