<T026-33>筆のすさび(19):性の多様化
この20年くらいで大きく変わったことの一つは性に関する事柄ではないだろうか。特に性が多様化してきており、まだ十分に認められているとは言えないけれど、20年前に比べればずいぶんいろんなことが承認されてきているようには思う。
僕もこの17年間で多少ともそれに関する人たちとお会いしている。また、僕が会った人でもそういうことを言わない人もいたかもしれない。主に同性愛と性同一性障害と称される人たちだった。
僕は個人的には性はあまり多様化しすぎない方がいいと考えている。基本的には男女の性別と異性愛のみを僕は認めている。
まず、精神に性別を僕は設けない。心の性というものを認めないのだ。心はそのどちらでもない。どちらでもないが故に、一人の個人は、男性であれ女性であれ、男性的傾向も女性的傾向も有することができる。もっとも、これらの傾向はどこまで社会的概念であるかは不明である。いずれにしても、精神は両性具有であるが、それは言い換えればどちらでもないということである。
今の時代はどうであるか知らないけれど、僕らの世代(あるいは僕より上の世代)においては、性別はかなり早期に身につくアイデンティティである。小学校に上がる以前に、既に男女があり、僕は男の方であるということを認めていたように思う。とは言え、その年齢相応の児童並みの認め方であったのであるが。
もし、人生早期に身につくのであれば、それはその人の基底の部分を形成するであろうから、そこがぐらつくというのは当人にとってはたいへんな危機感だろうと思う。そういう危機を体験させたくなければ、性別に関するアイデンティティは速やかに形成してあげたほうがいいのかもしれない。つまり、男の子は男児として、女の子は女児として、きちんと育てた方がいいのかもしれない。
自分の性別に関して混乱しているクライアントを見ていると、その育て方が不足しているか過剰であるかという感覚を覚える。つまり、男の子なのに女の子のように育てられたか、あるいは過度なまでに男らしさを求められたか、ということであり、女の子の場合でも同様の傾向を認めることができるように思う。
次に、アイデンティティとして有している性別と、生物学的に規定されている身体的な性別とが一致しないという場合、あくまでも僕の印象だけれど、一昔前ならアイデンティティとか心的な部分を変えようという人が多かったように思う。現代では体の方を変えようとする人が多くなったと感じている。もちろんどちらがいいとは言えないことである。僕は個人的には、心を変える方がいいとは思うのだが、当事者は体を変える方を選ぶようだ。
同性愛に関しては、昔の精神医学の教科書では倒錯に分類されていた。性対象の異常に含まれていたものである。性対象が先天的に決定されているものであるかどうかは僕には疑問である。つまり、生まれた時から同性愛であったという人がいるのかどうか疑問であるということだ。しかし、そういう人もおられるのかもしれない。
同性愛に関しては、僕は次のことに特に注目する。その人が過去において一度でも異性愛を経験したことがあるか否かという点である。もし、かつて異性を愛した経験があるとすれば、その人の同性愛はその時の挫折の反動である可能性があるからである。つまり、その人はその体験を克服できていないかもしれないのである。異性で上手くいかなかったので同性に走ったというのであれば、それは少し問題を僕は感じてしまう。
しかし、中には一度も異性を愛したことのない同性愛者もある。同性愛として認められていいのはこういう人である。異性愛を経験した人は、基本的に異性愛者なのであり、その同性愛はかなり無理して拵えあげた傾向であるかもしれず、どこかで歪みが生じてしまうかもしれないと、僕は心配になってしまうのである。
異性愛であろうと同性愛であろうと、その愛が成熟していればいいと言えるかもしれない。ただし、成熟した愛とか成熟した人格からもたらされる愛といったものは、これまで異性愛の文脈で語られてきたように思うので、同性愛においても同じような成熟がもたらされるのかどうか、僕には分からない。しかし、当面の間は、対象が異性であろうと同性であろうと、愛情が成熟したものであればそれで良しと僕は考えている。従って、成熟した同性愛は、未熟な異性愛よりも、当人たちにとって幸福をもたらすであろうと考えているわけである。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

