<#018-39>「会ったこともないのに分かるはずがない」
(Q)
これは「会ったこともないのにどうして分かるのかしら」(これを感動型と呼ぼう)から「会ったこともないのに分かるはずがない!」(これを拒絶型と呼ぼう)までを含みます。その中間として、無関心な感じの反応とか淡白な反応などもあります。
(状況と背景)
これは主に親カウンセリングにおいて私が経験する類の言葉であります。私は親の話から子を理解しようとします。その理解をクライアントである親に伝えます。親が(余計なことにも)その理解を子に伝えるのです。その際に上記のような反応が子から返ってくるわけであります。
(A)
私の回答は「分かるところのものは分かるのです」であります。なぜ分かるのかと言えば、彼らが単純である場合が多いからであります。
(補足と説明)
まず、こういう子たちは引きこもり状態にあります。それが理解を容易にしているところがあると私は感じております。ちょうどミンコフスキーがある患者との関係で「この人のことがすべてわかる」という感覚に襲われた体験と似ているのです。
要するに、この子たちは、さまざまな経験を積んだ人の複雑さとか、人間的な深みとかに欠けるところがあるので、理解が容易であるわけです。換言すると、彼らはけっこう単純なのであり、それ故に容易に理解できるところが生まれるわけであります。
次に子の反応に注目したいと思います。
感動型であれ拒絶型であれ、その理解は子に影響を与えていると想定できます。いい意味であれ、悪い意味であれ、子はその理解に刺激されているわけであります。
どちらの型になるかは、その子がカウンセラー(私)をどのような人間としてみなしているかということと親との関係によるところが大きいと私は考えています。私に対して拒否的であったり、母親との関係がよくないといった例では拒絶型が見られるように思います。逆の場合では感動型が見られることが多いように思います。
今の話を少しだけ説明を付け加えると、こういうわけであります。子にとって、母親との関係が良好である場合、母親の選んだカウンセラーに対しても好意的な態度を見せるものであり、母親との関係が険悪であるといった場合には、母親が選んだカウンセラーに対しても陰性の感情を抱くことが多いのです。これはいわば子供が親を「社会的参照」として活用していることでもあるのですが、その年代まで子が心的退行していると考えられることもあるのです。それはさておくとして、前者では感動型が、後者では拒絶型が見られるというわけであります。
拒絶型の一部では、母親から伝達される理解を侵襲的に体験している人もあるように思います。その理解が正しいとかいうことには関係なく、そういう理解が自分の内面に不意に入り込んでくるかのような体験となるのでしょう。それを排斥したい気持ちの表れである場合もあるように思います。
時に変動することがあります。最初は感動して、後に拒絶するといった例もありました。これはその子の状態の変動も関係しているでしょうし、それに合わせて親との関係も変動しているでしょう。そうした変動の一環として現れるように思います。
では、なぜ感動から拒絶へと正反対に方向に向かうのでしょう。私の推測でありますが、この理解が徐々に子には受け入れられないものとなっていったのでしょう。例えば、それが自分の自己像と齟齬をきたすなどといったことが起きているのかもしれません。そこで自己像を修正するのではなく、理解の方を拒絶することを欲するのでしょう。この子は新しい自己像を形成することや受け入れることが困難であるのかもしれません。
逆に拒絶から感動に変動するといった例も無いわけではありません。これは取り入れや自我化にいくぶん困難があり、それに時間を要するといった人に見られたことがあります。つまり、外界からもたらされるものに対して厳重に警戒していて、すぐにはそれらを受け入れないといった感じの人でありました。見方によっては、外部からの影響を最小限にしたいのでしょう。そのことは外部の影響を非常に受けやすい傾向を暗に示していると言えるかもしれません。
無関心や淡白な反応を示す子もあります。私の理解なり言葉なりが彼らからすれば的外れである場合もあれば、彼らには理解の及ばないものである場合もあるでしょう。ただ、無関心や淡白であっても、それに影響されていないとは言えないかもしれません。正直に言えば、彼らは間違いなく影響を被っていると私は考えています。
反応や態度における無関心さや淡白さというのは、「病的」な傾向が強い場合、外界からの影響を遮断しようとする試みであることもあり、あるいは、大きな衝撃を受けた後の反応として見られる場合もあるのです。
あと、人間は一人一人個性的で独自な存在であると言っても、多くの人に共通するものもあるものです。だから心理学なんて学問も成立するわけであります。
従って、同じようなケースを抱える何人もの人の話と接していると、ある程度共通するところのものも見えてくるのです。当人は自分だけが「特殊」だと信じているかもしれないのですが、決してそんなことはないのであります。周囲を見渡すと、あるいは歴史を振り返ると、自分と同じような経験をした人はいくらでも見つかるものなのであります。その人もまた我々と同じ人間である以上、共通点が多く見つかるものなのであります。
だから、何人もそういう人と接していると、実際に会わなくて、話で聞いただけでも、その人のことが少しは理解できることがあるわけです。もちろん、それがその人に関して正しいかどうかということは別問題であります。
最後にもう一度、子たちのその反応に戻りましょう。一般に(と言っていいかどうか)、「会ったこともないのに(自分のことが)わかるはずがない」と憤慨したくなるのはどういう場面でしょうか。
その理解が的を射ている場合があるでしょう。そのことが衝撃をもたらしており、その衝撃を反発するために言う場合があるでしょう。
また、何か一方的に自分が決めつけられるとか、型にはめられるてしまうように感じてしまう人もあるかもしれません。つまり、「あなたはこういう人間です」などと決めつけられたような体験をするという意味であります。その決めつけに対する反発であることもあるでしょう。
少し飛躍するかもしれませんが、自分に対するいかなる言葉も撥ねつけなければならなくなっているという場合もあるでしょう。どのような言葉であれ、自分が蒙る影響を最小限に抑えなければならないのでしょう。私の経験では、こういう場合においては、その人は変化を、どんなに小さな変化であれ、拒むであろうと思います。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

