<T026-45>動画広告完成記念コラム(10) 

 

(問9)「ここに来ると問題がなくなるので、意味がないんです」 

 

 日常生活場面では問題とか症状を現わしているのに、カウンセリングの場に来ると、そういうものがなくなってしまうということである。それでこの問題文のようなことを言う人も出てくるわけだ。 

 まず、押さえておきたい点がある。カウンセリングの場で症状や問題がなくなってしまうという経験も、自分の悪いところを見てもらいたいという感情も、どちらも自然なものである。そこは見誤らないようにしよう。どちらが正しいとか、そういう議論に入り込まないようにしようと思う。 

 僕も、3年ほど前に皮膚科を受診した時にそういう経験をした。医師は僕の書いた問診票をじっと眺めている。医師なりに何か考えているのだろう。それで、僕の方から「患部を見せましょうか」と言ったのだった。問診票に症状は書いていたのだけれど、それできちんと伝わるかどうかが不安だった。患部を直接見てもらってから判断してほしいという気持ちもあった。 

 医師は患者の患部を診るものである。僕たちはそれを経験的に知っている。それが普通のことであるという感覚さえ心の中で持っているかもしれない。同じように、カウンセラーもまたクライアントの悪い部分を見るものであり、クライアントはそれを見せなければならないと思い込んでいる人もあるかもしれない。 

 一方、なんら治療は始まっていなくても、病院へ行ったというだけで気持ちがラクになるといった経験もすることがある。これをお読みのあなたもそういう経験をお持ちかもしれない。病院へ行ったという安心感、治療を受けられるという期待、なんとかなりそうだといった見通しなどが影響するのだと思う。 

 クライアントたちもまたそういう経験をするのである。ここに来たら問題がなくなっているという経験である。上述のような感情や期待に加えて、それによって自我が機能して悪い部分がきちんと抑圧されるからだろうと僕は思う。そうして、「いい自分」「治っている自分」を経験できるから、クライアントはカウンセリングを続けたくなるのだと僕は思う 

 

 さらに、ざっくばらんに言うと、僕がクライアントの問題とか症状を見ることはないのである。「心の問題」というのは、内科や外科の疾病と異なって、その問題なり症状なりが発現する場とか状況とかが揃わなければならないものである。カウンセリングがそういう場になることはあまりないように思う 

 例えば暴力の問題を抱えている人があるとしよう。この人のカウンセリングを続けていても、僕は一度もその暴力場面を目撃することなく終わるのである。ギャンブル依存のような問題も然りである。その人がギャンブルする場を僕が見ることはないのである。幻覚とか妄想のような症状も、僕は話に聞くだけであって、僕の目の前でそれらが生じることは稀である。解離例の人、つまり多重人格と言われる人とも数人お会いしたことがあるけど、交代人格なんて一度もお目にかかることなく終結するのである。男性同性愛で苦悩している人も、僕に対しては愛情を抱くことなく過ごされるのである。自分が男か女かはっきりしないといった訴えの人でも、僕の前ではどちらかの性で落ち着かれるのである。だから、クライアントが主訴として持ち込んでくる問題なり症状なりは、話では伺うけれど、大半のケースで、僕はそれを直接見ることはないのである。そして、それでいいのである。 

 問題とか症状とかは、それが発現する状況が必要なのである。その必要のない場面では、クライアントたちは何ら問題とか症状を示さないのである。従って、「ここに来ると問題がなくなる」と訴えるクライアントはカウンセリングの場で「治癒」の経験をしているということになるのである。だから、本来、それは望ましいことなのだ。 

 

 さて、問題文のことを言う人は、この望ましいことを、望ましいこととして受け取っていないのである。本当はもっとも意味のある体験をしているのに、意味がないということにされてしまうのである。 

 もっとも、悪い部分を見てほしいとか、悪い自分になっても受け入れてもらえるかを確かめたいとか、そういう気持ちだってその人にはあるかもしれない。だからと言って、無理に症状や問題を顕現させなくてもよいのである。 

 また、そのような人たちの中には、「治療」ですべてを見せなければならないとか、「治療」の場ですべてを経験しなければならないとか、いささか極端な言い方だけど、そういう傾向を持っておられるようにも僕は感じている。まあ、ある種の完全主義なのだ。中には治療の場ですべてにケリをつけたがるような感じの人もおられる。 

 身体的な症状なんかでも同じで、その人が本当に「治癒」を実感し、経験するのは、治療の場ではなく、その人の日常生活場面においてなのである。 

 なんか矛盾めいたことを僕が言っているように聞こえるかもしれない。先ほど、カウンセリングで問題や症状が現れない時、その人は「治癒」を経験していると述べておきながら、「治癒」が経験されるのは日常生活場面であると述べているからだ。ここは少し説明を要するかもしれない。 

 カウンセリングの場において、クライアントは望ましい自分を経験しているわけである。僕から見ると、それは「治癒」状態を経験しているということになるのだけれど、少なくともその段階では、クライアントはそれを「治癒」とは受け止めていないのである。この状態を、彼がカウンセリング場面以外において、日常生活場面で経験した時、彼は自分が「治癒」しているという実感を覚えるのである。クライアントはそこで初めて自分が良くなっているということに気づくのである。僕から見ると、カウンセリングの場で経験されていた状態が、日常生活場面において「発見」されるという感じなのだけれど、クライアントはその時になって初めて「治癒」を認識するのである。もっとも、その瞬間でさえ、クライアントは自分が「治癒」しているということに気づいていないことも多いのである。それが本当に実感されるのは、まだ先のことであることもある。 

 

 少しまとめておこう。 

 「心の病」は、「病」が発現する状況において「発症」することが多い。そこが身体的な傷病と大きく異なる部分である。 

 クライアントが僕の面接中に「症状」が出ないということは、この場面で「症状」を出す必要がなくなっているからである。従って、良好な関係を築き、望ましい状況に身を置き、好ましい適応をしているのである。言い換えるとこれは「治癒」の状態である。クライアントはここで「治癒」を経験できているのである。 

 この経験をクライアントが自身にフィードバックできれば尚のこと良いと僕は考えている。つまり、「いい自分」を経験すると、こんな気分になるんだ、こんなふうに考えられるんだ、こんなふうに物事が見えるんだ、などと自身に再認識されると良いと思う。 

 「治らない人」は、この本来なら有意義であるはずの体験を「意味がない」と言って退けてしまうわけである。その理由はそれぞれあるとは思うのだけど、僕が残念に思うのは、この人たちは「いい状態の自分」から何も得ることができないまま終わることである。 

 

(寺戸順司―高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー) 

 

 

 

 

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