<T026-35>筆のすさび(21):刷新と蓄積
時間というものは流れていくものであるという感覚が日本人には強いと僕は思う。僕はむしろ時間は流れるものではなく蓄積されていくものだという感覚がある。
電車の車窓から眺める風景で喩えると、前者は先頭車両から眺める風景である。遠くの景色が近づいて来て、やがてそれが通り過ぎていき、視界から消える。そして次の光景が飛び込んでくるという展開だ。
僕の感覚は最後尾車両から眺める光景だ。新たな光景が背後から浮かんできて、やがて遠くになって見えなくなる。そして次の光景が背後からやってきて、それがまた遠く離れていくという展開だ。
山登りをしていた頃にもこの傾向があって、あとどれくらいで頂上かを見るよりも、どれだけ登ってきたかを見ることが多かった。あと少しだと思うよりも、ずいぶん来たなと思うことの方が多かった。
人生に対する姿勢も僕にはそういうところがある。この先どんなことができるかを見据えるよりも、これまでどんなことをしてきたかを振り返りたくなる。本を捨てずに置いておくというのも、本が好きだからというだけでなく、これまでどれだけの本を読んできたかを確認したいからでもある。
僕は僕の中で蓄積していきたいのである。流れ去らせたくないのである。
僕の有しているような時間感覚はユダヤ教のそれに近いらしい。確かに、旧約聖書なんて多くの人の言葉の蓄積である。新約聖書では、一応、それぞれの書に特定の著者がいることになっているが、そこが旧約聖書と大きく異なるところではないかと思う。
蓄積されていくと歴史が生まれる。流れていく世界では展開が生まれる。そう思う。どちらがいいとも僕は言えない。
流れ過ぎて、新しいものが現れることを刷新と呼んでおこう。一方では蓄積があり、他方では刷新がある。僕は蓄積の方に価値を置いているのだけれど、刷新の方に価値を置く人が日本人には多いのではないかと思う。
例えば、忘年会なるものを日本人はする。今年一年のイヤなことをすべて流そうという発想なんだろうと思う。酒飲みはまた別の発想をするかもしれないけれど、今年一年の諸々のことをきれいに忘れましょうっていうのが忘年会の意味じゃないかと思うのだ。これは刷新ということになる。
同じく、正月になると初詣に行く人、新年会を開く人も多いだろう。新しい一年の刷新をしているのである。去年までの一年を、ある意味では捨て、新たな一歩を踏み出そうといった発想が根底にあると思う。新旧の切り替えをするのだ。
憂さ晴らしとか気晴らしというのも、自分を刷新するための作業である。ストレスを解消して新しい気持ちになることを目指していると言えそうである。僕はストレスをため込みたい方である。いや、これは誤解されてしまうな。つまり、ストレスに耐えている自分を蓄積していきたいと思うわけだ。
自己実現というのは実に不明確な概念であるけれど、自己実現は蓄積の上に成り立つと僕は考える。でも、多くの人は新しい自分になることと捉えるのではないかと思う。自分が刷新されることを自己実現と考えている人も多いかもしれない。新しい自分は蓄積された自分から生まれるのではなく、刷新された自分から生まれると思う人もあるだろう。
僕の中で蓄積されているものが僕自身だ。そして、どれだけのものが蓄積されているのか僕自身にも分からない。僕の中に、まだ僕の知らない蓄積物がどれだけあるだろうか。僕は僕の中から新たな発見の可能性を覚える。しかし、その可能性の中には、期待だけでなく、畏怖もある。蓄積してきたものの中には僕にとって恐ろしいものだってあるかもしれない。そういうものを見てしまわないとも限らないのだ。
蓄積してきたものを見るより、そんなものを流して刷新して生きていく方がよほど生きやすいだろうと思う。それでも僕は僕の中で日々蓄積していきたいと思う。そして、蓄積してきたものを俎上に上げたいとも思うのである。どうやらこういう生き方しか僕にはできそうにないようだ。
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

