<T026-34>筆のすさび(20):信用と懐疑
面接中は僕はクライアントの話をそのまま信用するようにしている。クライアントが最近仕事が上手くいかないんですと話したとすると、僕はそのままこの人は仕事が上手くいっていないんだなと信用する。
面接を終えて、改めてこの人のことを考える時、今度は僕は疑う。仕事が上手くいかないと訴えていたけれどそれは本当か、という問いを立てる。
面接中はクライアントの話を信用しながら聞くが、録音した音声を聞く時はクライアントの話を疑いながら聞く。どうして録音するのかという理由の一つがそこにあるわけなのだ。面接時とは違った耳で聞いてみたいのである。
面接中はクライアントの話をそのまま信用して、陰でそれを疑うなんて非常に陰険な人間と思われそうだ。意地悪な人間と思われてしまいそうだ。そういう誤解を招かないように少し述べておきたい。
対象を疑うというのは、対象を対象化する一つの方法である。疑うという言葉の響きもよくないな。対象に対して懐疑的に関わるということである。対象化できていない程度に応じて対象に巻き込まれることになるので、対象に巻き込まれないようにする一つの方策であり、自分の立ち位置を明確にする働きもある。
クライアントの話をそのまま信用している時、ある意味では僕はクライアントの話に巻き込まれに行っているのである。しかし、巻き込まれたままでは見えないものが多くなってしまう。そこで、僕が一人の時にクライアントの話を懐疑的に聞き直す。懐疑的であることによって、僕はクライアントの話に距離を置くことができる。少し離れてその話を考えることができるようになる。巻き込まれている間には見えなかったことも見えるようになる。
哲学を学んだ人であれば、それがデカルトの方法論であるということが分かるだろうと思う。方法的懐疑である。デカルトの思想には賛同できないものも多いのだけれど、この方法論は正しいように僕は思う。疑ってみる。あらゆることに疑いは可能である。疑いがあるということは、それは確かなものではないのだ。どうしても疑うことのできないものは、まさに疑っている自分である。それこそがもっとも確かなものなのである。「われ思う故にわれ在り」が言えるわけである。疑うことは対象を確固としたものとしていく作業でもあると僕は考える次第である。
しばしば自分を客観視しなさいと勧める専門家もいる。あるいはクライアント自身が自分をもっと客観的に見れるようになりたいと訴えることもある。さらに、自分を客観視した結果こういうことが分かりましたなどと報告してくれるクライアントもある。
人それぞれの考え方もあるだろう。それに客観視する方法もいくつもあるだろう。でも、自分を客観視したかったら、自分に関する一切を疑ってみるのが一番である。もっとも、これは相当厳しい方法ではあるが。
僕が僕を客観視するという時、僕の行為、言葉、感情、思考、その他全てを疑ってかかるということである。一切の言い訳はなしである。言い訳をするということは僕がまだ主観の位置に留まっていることを意味しているからである。ある行為を僕は正しいと信じてやったのだけれど、その信念は本当かと疑うのである。疑いを解消できるものがないのであれば、その行為は正しくないということになるか、さらに他の問題が俎上に上がるかするだろう。
考える、思考するとはそういうことでもあると僕は捉えている。例えば、僕も昔は衝動買いをよくしたもので、買う時にはこれを買うかどうかを多少は考える。しかし、それは思考とは言わないのである。買い物依存とか浪費家は考えて買い物していると言うのだけれど、本当はそれは思考ではないのだ。僕は今この品物を欲しいという気持ちに襲われているけれど、この気持ちは本当かと疑わなければならない。そこから思考が始まるのだと僕は思っている。
怒りっぽい人が怒らなくなるのもそうである。感情をコントロールするのではない。その感情を疑うのである。この懐疑によって思考が発動するのである。従って、この人は行動に駆り立てられる前に思考するようになるのである。繰り返すけど、それは感情をコントロールすることではないのである。
僕はクライアントに、もう一回録音を聞き直してあなたのことを考えてみます、と伝える。喜ぶクライアントも多い。もう一回自分のことを考えてくれるんだと思うからだろう。でも、本当のことを言えば、今度はあなたのことを疑いながら聞き直しますという意味なのである。
懐疑的に考えるということは、言い換えると、疑問を持つということでもある。あるいは疑問点を発見することにつながるということである。「治る」クライアントというのは、自分自身に対してそれをするようになるのだ。自分にとって当たり前と感じられている事柄に疑問を覚えるのだ。そこに疑いを抱いてしまうのである。これは大きな差であると僕は思っている。自分に関しての「答え」だけを求める人と自分に関して疑問点を発見する人とでは大きな差があるのだ。「治らない人」が前者なのである。
あと逆転移のことにも触れておこう。
例えば、カウンセラーが過剰にクライアントに同一視して、過剰に共感してしまうというのはカウンセラー側の逆転移の一つである。
フロイトの精神分析では臨床家の逆転移は治療の妨げになると考える。だから教育分析が重視される。臨床家になる者はそこで逆転移の問題を処理しなければならないというわけである。
一方、逆転移には治療上有意義な一面もあると認める人たちもある。ユング派の人に多いだろうか。逆転移は両刃の剣のようなものであるわけだが、必ずしも悪い面だけではなく、治療的に活用すれば武器になるというわけだ。
僕が思うに、クライアントのことを考える際に、懐疑的な態度で臨んでいるとそういう逆転移がかなり回避できるようである。クライアントに巻き込まれる度合いが減るからではないかと僕は感じている。
(中絶。どうもこの話はこれを読む人の誤解を招きそうだという気持ちが強くなった。僕がウラ・オモテのある人間であると思われるかもしれない。いや、本当は人間誰でもウラとオモテがあるのだけれど、そのことに衝撃を受けてしまう人もおられるので、こういう話は控えよう)
(寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

