<テーマ185>結婚に関する断章(1) 

 

(185-1)独身でいること 

(185―2)結婚とは「治療」である 

(185―3)大きく変わる体験 

(185―4)変化を恐れてしまうこと 

(185―5)女性はより大きな変化を求められる 

 

 

(185―1)独身でいること 

 私は結婚したことがありませんし、平成26年現時点において、これから先も結婚する予定もない人間であります。 

 私は自分が独身なので、結婚問題や夫婦の問題に関する相談を受けることは一生ないだろうと考えていました。ところが、現実には夫婦関係やDVの相談を受けることが多く、私は自分の認識を改めないといけなくなると同時に夫婦関係や離婚・DV問題に関しても新たに学ばなければならなくなりました。 

 クライアントの中には私が独身で結婚歴がないということをひどく気にされる方もおられました。それも頷けることです。クライアントからすると、カウンセラーが独身であるということは、相談の種類によってはひどく信用を損ねることだと思います。私のことを結婚に失敗した人だとか、人格上の大きな問題を抱えているのではないかと訝られるとしても、当然だと私は思います。 

 一方で、夫婦問題を持ち込んできたクライアントの中には、私が独身であるということがとても救いになると感じられる方々もおられました。自分たちは夫婦関係で躓いているのに、目の前にそれを上手くやり遂げている(と、そんな風に見えている)専門家がいると思うと、どうにも窮屈に感じられるとその方はおっしゃられました。また、別のクライアントは、未婚者の目線で見てもらえるのが良かったと述懐されました。私はここでもまた自分の認識を改めることになりました。 

 さて、一昔前ほどには結婚の束縛が緩んできているおかげで、私たちは結婚するもしないも個人の選択に任される度合いが大きくなっています。社会的な圧力が減少して、個人の自由がそれだけ増えているのですが、この自由の増幅は結婚に対しての新たな不安を喚起します。この不安に関しては後々述べる機会があると思いますので、ここでは触れずに済ませます。 

 私は、少なくとも現時点においては、独身のまま生きるだろうと思っています。結婚をしないということは、それによって得られる多くの喜びや苦難を犠牲にすることになりますが、自分では結婚生活を営めるほど精神的に成熟していないと自覚しているのです。私は自らの選択でもって未婚を選んでいるのです。 

 しかしながら、もし、夫婦生活を営んで行けるほど成熟しているのであれば、人はぜひとも結婚するべきだと私は考えています。独り身で生きるよりも、夫婦になり親になるという生き方を選ぶべきだと、そのように考えています。 

 独身でいるということは、結婚して夫婦になること以上に多くの課題を自らにもたらすことになると私は考えています。つまり、夫婦になることで向き合うことになる課題を、独身者は独りで成し遂げていかなければならなくなるからです。従って、結婚することも覚悟が要るのと同じように、独身で生きるということにも相当な覚悟が必要であると、私はそのように考えています。その点については後々述べる機会があるでしょう。 

 

(185―2)結婚とは「治療」である 

 さて、結婚とは何でありましょう。法律の専門家であれば結婚は法的な行為や制度であると述べることでしょう。経済学者なら結婚は経済活動だと捉えることでしょう。一臨床家である私は、結婚とは「治療」であるという観点を有しています。 

 次節で述べるように、結婚するということは、周囲との関係すべてに変化が蒙られることになります。男女としてのアイデンティティや夫婦というポジションを確固とし、夫妻という新たな役割と生き方をそこで獲得することになり、そのアイデンティティをさらに確固としていくことが求められることになります。この時、それまで自分がどのようにアイデンティティを形成してきたかに再度直面することもあります。 

 また、夫婦になるということは、どんな些細な決定であれ、夫婦で共同して行われることになります。その時、当事者は自分がこれまでどのように物事を決定してきたかについて再び向き合うことになるかもしれません。 

 時には、たとえ深く愛しているパートナーであっても、意見が対立したり、受け入れがたい側面を見てしまったりすることがあるかもしれません。その時、当事者は葛藤を経験することになるのですが、それまで自分がどのようにさまざまな葛藤を処理してきたかに向き合うことになるかもしれません。また、どういう事柄に関して葛藤を抱いてしまうかについて再度考え直させられるかもしれません。 

 夫婦関係を経験していく中で、自分の親夫婦がどういうことをしていたかに目が向くようになるかもしれません。その時、自分にはモデルとなる夫婦像がいないということに気づく人もありますし、親夫婦と自分たちとはまったく違うということに気づく人もあります。親夫婦に対してのそれまでの見方に変更をしなければならなくなる場合もあれば、改めて自分の親をきちんと見るという課題に直面する場合もあるでしょう。 

 このことは子供が産まれるとより明確になります。自分が親になって初めて、親が自分に対してしていたことの意味を知るようになるかもしれません。そこで初めて自分と自分の親との和解、それも精神的な和解のテーマを達成することが求められることもあるでしょう。 

 いくつか上述したように、結婚して夫婦になるということは、しばしば過去の未処理の問題を再燃させてしまうものです。しかし、これはその時にやり遂げることのできなかった課題を再び取り上げる望ましい機会にもなるのです。結婚しなければ、その人はその課題に取り組むことなく一生を終えていたかもしれません。それはそれで満足がいくことであるとお考えの人もあるかと思いますが、未処理の問題を未処理のまま放置しておくよりも、どこかで取り組んだ方がより望ましい自分を生きることができるようになるものなのです。 

 人は配偶者を選択し、結婚し、そして親になっていくといった過程において、過去の未解決だったいくつもの問題に再度直面することになります。その人はそこで改めてその問題に取り組むことが求められます。パートナーの存在は、それに気づかせてくれたり、同じようなテーマに取り組んでいたりと、こ「治療」の支えとなり、よき同伴者ともなります。夫婦とは相互治療の関係でもあると私には思われる時があります。 

 そうして夫婦はそれぞれの過去から持ち越してしまっているさまざまな内面的な問題を克服し合い、相互に人格を高め合い、お互いの人生と人格を完成に近づけていくことが理想的な夫婦関係であると私は考えています。 

 

(185―3)大きく変わる体験 

 さて、結婚をするということは、その人の生活場面や人間関係すべてに何らかの影響をもたらすことになります。 

 結婚して夫婦の家庭を持つということは、親との関係に一線を画すことになります。また、その他の友人関係、同僚関係にも少なからず変化をもたらすことになります。 

 例えば、自分よりも先に結婚した友人のことを思い浮かべてみるといいでしょう。友人が結婚すると、それ以前とは何となくだけれど付き合い方が変わったとか、今までとは別の仕方で意識するようになったとか、そのような経験をされたことはないでしょうか。仲の良かった友人との間にどこか境界線を引かれたような感じだとか、友人がどこか別次元に行ってしまったような感じだとか、そのような経験をされたことはないでしょうか。 

 同じことは結婚した側も体験しているかもしれません。結婚するということは、考えようによっては世界が一変するという体験となるのかもしれません。ある人は結婚して、夫婦になったという実感を得た時に、自分があたかも「新しくなった」というような感慨を持ったと語られました。一方、別の人は結婚して何もかもが失われたような気がしたと述べられました。この二人は正反対のような体験をされているにしても、そこで自分や世界が大きく変わるという体験をされているのだと思います。 

 

(185―4)変化を恐れてしまうこと 

 上述のように考えると、結婚とは人生の一大事だという感じがしてきます。実際、結婚して夫婦になるということは、お互いが新たに「生き直す」ことではないかと、私にはそのように思われるのです。 

 一方で、このような変化を恐れるという人も少なからずおられます。その人たちは一生結婚をしないと決めていたりします。結婚を拒否しているわけです。しかし、本当に拒否しているのは、結婚そのものではなくて、自分自身に変化が蒙られることの方である場合も少なくないように私には思われるのです。 

 20代前半の若い女性でしたが、自分は結婚する意志はないと語りました。詳しく訊いてみると、彼女にとって、結婚とは束縛以外の何物でもないということになるようでした。何が束縛になるのかと尋ねると、彼女の話では、結婚すると好きなことができなくなり、相手にも合せないといけなくなるということであり、彼女はそうなることを忌み嫌っているのでした。 

 その女性に対して、私はその考えのままでいればよいと考えています。彼女はいつか自分のその考えに疑問を抱く日が来るかもしれません。その時に改めれば良いと思います。ただ、同じことを40歳代の女性が述べたとすれば、私はお節介にもその考えに介入したくなるでしょう。 

 私は結婚とか夫婦が束縛であるという考え方には賛成できないのです。先の女性は結婚すると、趣味や習い事の時間が制限され、友達と遊ぶことにも不自由し、せっかくの仕事上のキャリアも捨てなければならなくなると、そのように考えていました。それを束縛と捉えておられるようでした。しかし、考えてみてほしいのですが、その趣味や習い事、遊び、仕事は、別の意味で彼女を束縛していないだろうかと、そのような疑問が私には生まれるのです。束縛されているということに違いはないのではないかとそのようにも思われるのです。 

 すごく大雑把な言い方をすることをお許し願いたいのですが、結婚して自分らしさを失うと恐れている人は、結婚しなくても自分らしさを失っているだろうと私はそのように考えています。自己実現を目指している人は、結婚することが自己実現の妨げになるとは考えず、むしろ、結婚してもなお自己実現を目指して行かれるだろうと、そのように私には思われるのです。 

 遊びや趣味はともかくとして、確かに仕事というのも大事であります。働いて生計を立てなくては生きていけないものです。結婚をして、子供が産まれたりすると、しばしば女性は退職したり、あるいは産休期間、育児期間のために、培ったキャリアを断念しなければならないという状況に立たされたりします。 

ある40代後半の女性は仕事のキャリアを失いたくないからと言って、ずっと結婚しないで生きてきました。彼女のこの理由は合理化にしか過ぎないと私には思われるのです。蓋を開けてみれば、彼女は一企業の一事務員の地位に留まっているに過ぎないのです。結婚を犠牲にしてまで培ったキャリアがそれだったのです。果たして、それは結婚を犠牲にしてまで達成するだけの価値があることなのでしょうか。 

 比較しているように思われたら遺憾に思いますが、むしろ結婚してきちんと子供を育てたという女性の方に、もっと高いキャリアを獲得している例も多く見られるように私は思います。もちろん、同じことはある程度男性にも該当するということも付け加えておきます。 

 先述の40代後半の女性に関して言えば、彼女は結婚によるキャリアの断絶を恐れているのではなく、結婚に伴うさまざまな変化を恐れていたという方がより正確なのだと思います。変化を恐れているというその傾向は、彼女がいつまで経っても一事務員のポジションより発展していかなかったことにも表れているように思われるのです。 

 

(185―5)女性はより大きな変化を求められる 

 もし、この40代後半女性に対する私の見方が厳しいとお感じになられたとすれば、私の説明不足であることをお詫びしたく思います。一方で、彼女のような人が結婚にまつわるさまざまな変化を恐れる気持ちというのも私は私なりに理解できるように思います。 

 結婚・離婚に関しては男女双方が変化を蒙らなければならないのですが、その変化の度合いは男性よりも女性の方がはるかに大きいのです。 

 姓を考えてみましょう。男性が養子になるのでなければ、姓が変わるのは女性の方であります。生まれ育った家族の姓を変えなくてはならないのです。また、離婚すれば旧姓に戻すことになります。男性は、結婚しても離婚しても、自分の姓が変わるという体験をしないのです。 

 仕事に関してもそうなのです。女性は結婚を機に退職したり、出産・子育てのためにキャリアに中断が生じたりします。離婚した場合、女性はしばしば新たな職を見つけなければならないのです。男性はそういうことがないのです。結婚してもそれまでの職場に勤めることができますし、離婚してもそのまま同じ職場に勤めることができるのです。 

 子供が産まれた場合、女性は体が変化するともいいます。これは男性には見られない変化だと思います。心的領域においても変化するのですが、これもやはり男性より女性の方がその度合いも大きいのではないかと私は考えています。 

 その他にも、結婚後、出産後の交際や生活の諸領域においても、男性よりも女性の方が変化するように私には思われるのです。結婚しても、子供が生まれても、男性はそれまでの人間関係を持つことができるのですが、しばしば女性は近所の人たちやママ友達との付き合いを新たにしていかなければならないことも多いように思います。 

 さて、このように見ていきますと、変化する領域が大きいほどその変化を恐れる気持ちが生じて当然だと私は思います。従って、女性の方が変化に対する恐れを克服することがより求められることになります。女性にとってはとても大きな課題ではないかとも私は思います。 

 最後に余談ですが、女性は結婚すると強くなるという迷信があります。私はそうとは思わないのですが、一理あるとも考えています。女性はそれだけ自分に降りかかる変化を受け入れ、それを克服する過程があるわけだから、それだけ強くなるのだろうと思います。男性はそういう過程を経ないことが多いので、例えばわずかの人事異動でもパニックになったりするのかもしれません。結婚に関しては、変化を恐れないだけの強さが男性にも女性にも求められるのかもしれません。 

 

(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー 

 

 

 

 

 

PAGE TOP