12年目コラム(30):愛の実践(4)
人に対する愛の実践とは、人に耐えることであり、人に与えることであると述べてきた。他の言い方もできるだろうけど、ここではあまり深入りしないようにしたいと思う。細かな点を見ていけば、おそらく膨大な量の文章を綴らなければならなくなるだろうからだ。
次に見ていきたいのは、愛の実践は、優しさだけでなく厳しさも含まれるということだ。愛には厳しい一面もあるということだ。
相手に利益をもたらすために、あるいはもっと望ましい方向に進んでもらうために、時には、相手に「ノー」を言うことが必要になる。人には必要な苦難や傷つきというものがあると僕は考えているので、相手を苦しめないでおこうとか傷つけないでおこうとか、そういう気持ちだけで相手に接するのは、却って、相手に不誠実な態度だと考えている。もちろん、不要な苦難や傷つきは避ける方が良いのではあるが。
マザー・テレサという人がいた。とても慈愛に満ちた人だと思うのだけど、実はとても厳しい人だったということを聞いたことがある。僕は何となくわかるような気がした。愛や優しさの実践には厳しさも求められるからだ。
過去に僕の知り合った人たちで、愛情豊かな人だけど、けっこう厳しい一面を持っているという人も少なくなかったように思う。多分、それが本物なんだろうと思う。
しかし、厳しさは、受ける人によっては、愛情だと認めることができないし、ある種の攻撃だとしてそれを体験することもある。敵意に基づいた攻撃と、愛情に裏打ちされた厳しさとは、まったく異なったものであるが、その区別がつけられない人たちだ。これは言い過ぎかもしれないけど、自我がより脆弱な人ほど、あるいはより「精神病理の重い」人ほど、この区別がつかないように僕には思われる。前者はその厳しさによって自我が崩壊してしまい、後者はその厳しさを歪めて受け取ってしまうからだと思う。
ここでもっとも重要だと僕が思うところのものを述べる必要がある。
それは、厳しさの実践は容易に憎悪に引火するという危険性のことだ。体罰や虐待はしばしばそういう形で生じるのではないかと僕は思う。
最初は相手のためと思ってやっていた厳しさが、いつしか自分の憎悪に引火し、この行為が自分の憎悪のはけ口になってしまうということだ。そして、いつ、自分の憎悪に点火したのか自分でも分かっていないのだと思う。
従って、自分の憎悪というものをよく見ておかなければならない。憎悪が込み上げてきた時に、速やかにそれに気づかなければならない。その時は、それ以上続けてはいけないということだ。「ここまでにしよう」と自分から打ち切らなければならない場面だ。この厳しさを憎悪に引き渡してはいけないし、そうなる前に、打ち切ることが求められるわけだ。
でも、人はそこで粘ってしまう。まだそれを愛情行為だと信じているからかもしれないし、引き下がれない事情がその人にあるのかもしれない。あるいは、相手の方が食らいついて離してくれないという場面もあるが、それでも「ここまでにしよう」と言って終える方が、憎悪に火をつけてしまうより、ずっとましであり、それも愛の実践だと僕は考えている。
ここには一つの逆説がある。愛を実践する時には、自分の敵意や憎悪を熟知しておかなければならないという逆説だ。
もし、自分の敵意や憎悪を十分に知ることができないのであれば、せめて、敵意が込み上げてきた時、憎悪に駆り立てられる時に自分がどういう状態になるかを知っておくことである。そういう状態に近づいたと認識された時には、それが危険信号となってくれる。そして、速やかに、その場から去るなり、そのやり取りを終えるなりをした方がいい。そこで打ち切ることは、相手に付き合って延々と続けてしまうよりも、はるかに愛情行為なのだと、僕はそう考えているし、そう信じている。
いや、偉そうに言って申し訳なく思う。実は、僕もそこで打ち切ることができずに、粘ってしまい、結局、僕の憎悪を爆発させてしまったという経験をしてきたのだ。僕は僕にできなかったことだから、声を大にして言いたくなるのだ。僕にとって、それがとても大切なことのように思われているから、こうして伝えたくなるのだ。この辺りの状況は、いつか「著者と著書の同一視」というテーマの際に取り上げることにする。
(文責:寺戸順司-高槻カウンセリングセンター代表・カウンセラー)

